恋とか愛とか
「恋なんて馬鹿にならなきゃやってらんないんだからね!」
友人が私にそう叫んだ。
私は誰と居てもいつもどこか冷静で、人生の中で本当の恋なんてした事がないんじゃないかと思った。
ベタなことを言うけれど、
恋をサイダーに例えるなら、愛はコーヒー。
サイダーに入る炭酸は長くは続かないけれど刺激的で甘ったるくて、コーヒーは苦くてそれにカフェインには中毒性がある。
恋を知る前に愛を知ってしまった人間はどうするのか。
愛というものは悲しみや諦めや憎しみの後にも存在出来る。
幼い頃からコーヒーの苦味に慣れてしまった人は、今更サイダーの甘さに喜ぶことも炭酸の刺激に驚くことも出来ないのではないか。
冷静な人間には特大の馬鹿しか効果はない、などと友達がおかしな事を言うから私は面白くて口に含んだコーヒーを吹き出しそうになった。
目の前に並ぶ彼女とそのパートナーを眺める。
2人はまだ恋の魔法の中に居る。
それぞれが口にするようにお互いに欠点があるけれど、それを打ち消すほどの甘さと本能が2人の間から漂っていた。
破天荒な彼女のパートナーはとても冷静で、出会った頃のお前は本当にヤバいやつだったと微笑み、そう言われた彼女は否定もせずその通り!とおどけている。
彼女の方が一方的に何度も迫った事からお付き合いに発展したらしい。
人というものは共通する部分で惹かれるのではなく、相反する部分がピースのようにはまるのではないかと2人を見ながら思った。
「同じ」「一緒」じゃなくて良いのだ。
人は他人と近づこうとする時に相手との共通項ばかりを探しそうとしがちだけれど、
「違う」部分こそが人同士の距離を本当の意味で近づけるのではないか。
私は思った事を口にするでもなく、1人そんな事を考えては2人を眺めて微笑んだ。
コーヒーを飲む事に親しんでしまった私は、パブロフの犬のように苦味を感じた時、それが愛だと条件反射的に勘違いしてしまう癖がついてしまっているのではないか。
愛の後に恋を知る事なんて出来るのだろうか。
順番を間違えて生きてきた人間が、今更純粋な甘さに酔えるのだろうか。
私はテーブルの上に存在しない真っ赤なチェリーの乗った可愛らしいメロンソーダを夢想しながら、両手で包んだコーヒーカップをじっと見つめた。