- 天狗の子 -
珈琲を淹れるガラスで出来たサイフォンが沸々と心地の良い小さな音を立てている。
小夏は店内にあるニセモノの金で出来ているであろう装飾過剰な裸のビーナスのオブジェ達を眺めていた。
雨のせいか客は誰も居らず、昭和のまま時が止まったような浮世離れした店内で、小夏はこの世から引き離されたまま時が止まってしまったような心寂しい気持ちになっていた。
龍音の"ヒーリング"を受けに来る客が女性の場合、指示された時にはマンションからほど近いこの喫茶店に度々来ていた。
女性の客は"ヒーリング"よりも龍音自身を目当てにしている者も多く、年頃である小夏は客からの嫉妬の対象になる事もあったためにそのようにしていたのだ。
若い客から「あんた龍音とどういう関係なのよ!」といきなりバックを投げつけられた事もある。
小夏はこのバイトをする中で心寂しさから来る人間の奇行にうんざりしつつあった。
外の雨が強くなり窓ガラスにぶつかっては下へと流れていく。
相変わらず小夏以外に客が来る事はなく、不思議な雰囲気の店内と雨の音、サイフォンの音が重なり睡魔となって小夏を襲った。
「カチン。」
ガラスとテーブルが重なる音で小夏はビクッと体を震わせて目を覚ます。
店員が珈琲を運んできたのだ。
驚いた小夏が思わず顔を見上げると、そこには見覚えがある顔があった。
「あ。」
(こないだのライブハウスで歌っていた人だ。)
思わず声を漏らしてしまっため、店員は少しだけ首を傾げ不思議な顔をして小夏を見つめた。
「こないだ、商店街にあるライブハウスで歌っていましたよね。」
突然の事でおどおどとしながら小夏は口を開く。
「あああの時の。見にいらしていたんですね。」
店員は珈琲を運ぶためのトレーを左手で下ろしながら、少し垂れた目を細めて微笑んだ。
「お近くなんですか。」
「え?」
小夏は何のことか分からず口籠った。
「お住まいかお仕事先、お近くなんですか?」
ああ、と小夏は近くでアルバイトをしているのだと伝えた。
店員は喫茶店の店員としての服装のせいか、ライブの時の今時の少年のような印象とはまた違った落ち着いた印象をしていた。
他の客が居なかった事もあり、小夏と店員はぽつぽつと会話を重ね、小夏の方が年が3つ上な事、お互い大学生だが店員は3つのアルバイトを掛け持ちしながら音楽活動をしている事などを話した。
会話が途切れると少し気まづい沈黙が生まれ、2人の間に雨とサイフォンの音だけが流れた。
外の雨がどんどん強くなって来ている。
「あ、そうだ。ライブで最初に歌っていた曲。
あの曲のタイトルって何ですか。なんだか不思議な曲だったから。」
小夏は少し恥ずかしい気持ちになりながら冷め始めた珈琲を飲み込み店員に聞いた。
「あああの曲。don't forget flower name. 花の名前を忘れないで。というタイトルの曲です。」
店員はなんだか少し恥ずかしそうに前髪を弄りながらそう言うと、店のドアがカランと鳴り、肩を雨で少し濡らしたサラリーマンがいそいそと入って来た。
いらっしゃいませ、と店員が客の方へと向かう。
残された小夏のスマートフォンがブルルと鳴り、龍音から客が帰ったと連絡が来ていた。