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美に死す:占い師の日記

西に住んでいた時にはカクレキリシタンのことを学んでいたけれど、
今は仏教を勉強させて頂いている。
土地柄である。
霊的な観点から仕事をする人は二極で、
人間に善なるものを見出し完全にそれを信用するタイプと、
神仏をしっかりと学び、一周回って人間だけの力でどうにかしたがるタイプのように思う。
自分がどちらか…と言えば、後者に近い五分五分。
今度は神道のような考えだが、神仏の役割はあくまでも人が住んでいるところに食物となる植物を育てられる土壌を作るとか、地球の自転を一定の速度にするとか、人間の及ばぬところの作用のことを指すように思う。

では、神仏・大いなる存在・先祖・守護の存在などなどに祈る意味は何かと言えば、まずは信仰の前に自分のエゴがあり、それを満たしてほしく、それが人間の力で無理であれば神仏に頼る。
どういうメカニズムなのか、選民意識でもあるのか、何で自分の祈りが届くと思うのか我ながら解らないが、苦しい時は神頼みする。

幼い頃から寺社仏閣には信心深い祖父と巡っていて、
祖父の祈りの内容が、どうも先の大戦で戦死した友の冥福だと解った時に、どこか、人の心と仏の存在の解離を感じたものである。
仏が人と最初から密接に関わっていれば、仏心を誰もが思い出していれば、そもそも戦は起きない。特攻隊の皆様の博物館に散華した少年を迎えに来る天女の図があるが、なぜ、散華する前に来てくれないのか。人間は現世で救われないのか。死が救いになるなんて惨い。

そう、国宝級の仏像の半眼にいつも問いかけたし、
当時、世界遺産になったばかりの隠れ切支丹のお像のマリア様にも尋ねていた。

結局、救いと人を繋ぐのは「美」である。

寺が過剰に豪華なのは、教会が静謐に綺麗なのは、そこに信仰心の具現化があるからである。
宗教における「美」は、信仰を指す。
信仰とは、生きながらこの世に浄土・天国を作ることである。
現世利益のためではない。
寺院のきらびやかな仏像や装飾は、死を迎える前に、生きている今こそ、辛くなったらいつでも浄土に来て良い、寺に来れば美しいものによって心救われて浄土にいるような気分になれる。だから仏教美術は美しい。
日本の教会の在り方は、嵐のような波うねる気持ちを治めてくれるモチーフがたくさんある。聖書のエピソードを模したステンドクラスや、バチカンより質素な像に差し込む陽の光に、何か赦されたような、キリストを見たような気持ちになる。美のなせる技である。

私は、私が信仰しているのは結局は<美>なのではないかと思っていて、「美しい、そうではない」の二極しかない極端な価値観と、醜さを嫌う明確な差別意識と、人を活かせるし人も殺せるし、何だったら、神の代弁者たる概念である。

これから、より現代に即した祀り方を考える。
オリジナルの仏画を面白がってくださる方に出会えた、大変なご縁である。ある場所に視察もした。
あとは美に頼る。自分が考えるのではない、美の基準に則しているか測るだけ。


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