【戦国武将討死列伝(自害・刑死アリ)】⑥仁科盛信

列伝其の六『仁科盛信』

(1582年)私は叔父上(武田信廉)と交代で高遠城の守備を任された。主君である兄上(武田勝頼)の為に、この命捧げようではないか!他の者たちは我等武田家が追い込まれや織田と通じ保身しか考えぬ不忠者ばかりであった。せめて私が武田の血を引く者として意地を見せてくれようぞ!
織田信忠率いる甲州征討軍と称する軍勢がこの高遠城にも押し寄せて来た。
我等の鉄の結束力に怯えたか、信忠は数を頼みに力攻めに討って出た。
如何に我等の士気が高くとも、兵力に差がありすぎた。なるべく持ちこたえて敵の兵糧を食い潰させる筈が、信忠めは力攻めによって口減らしもするとは!なんとも慈悲の無き父子よ。親が親なら子も子だ。
敵兵が本丸に迫る。この身を処するは今をおいて他に無し。
「我こそは、仁科盛信である!武士の切腹の手本お見せしよう!刮目せよ!」

『仁科盛信』自害