第18回 「心の通りに世界が変わる」話
神様の話をしていると、
神様は、どこにいるんですか?
存在を、証明できるんですか?
と、よく聞かれます。
私は神様を信じていますが、神様がどこかにふわふわ漂っているとか、神様の国があってそこに住んでいるとか、そういう風には考えていないんです。
天理教の教祖「おやさま」はこの事について、
「この世界は、神のからだである」
と言われます。
つまり宇宙や地球といった、この世界全部を「神様」と呼ぶと、分かりやすいかと思います。私たちはそもそも神様の中で生まれ、生かされ、生活をしているのです。
そしてこの世界には、絶対的な「ルール」があります。
例えば、時間が流れていく、重力が働いている、分子と原子で出来ている、等、正に今、宇宙が成り立っているのは、この当たり前の「ルール」が働き続けているからなんです。
もしこのルールが狂ってしまうと、重力がなくなり、物質は崩壊し、時間は進んだり戻ったり。完全に私達の住める世界では無くなってしまいます。
この絶対的に狂わない、完璧な世界を作り上げているルールの事を、「天の理」と呼びます。
さらにおやさまは、「誠一つが天の理」と仰せられたので、「誠」=「天の理」と考えると分かりやすいかと思います。
つまり、私達の住んでいるこの世界こそが、一寸の狂いもない天の理に支えられた、嘘偽りのない「誠」の世界である、ということが出来ます。それは正に、「神様の世界」と呼ぶにふさわしい、完璧な世界です。
その一片の狂いもない「誠」の世界の中で、一つだけ、あやふやな部分があります。
それは、人間の「心」なんです。
おやさまは、「心一つが我がもの」と仰せられますが、私たちはこの「心」の中では、時間を一瞬で遡ったり、地球の反対側に飛んでいったりと、自由に、どんなことでも想像出来ます。
これって実はものすごい事で、天の理によってきっちりと定められた「誠」の世から自由になっているのは、この「心」以外、他にありません。
しかし、心の自由は、いいことばかりではありません。心が自由だからこそ、私たちは悩み、苦しむことにもなります。
なぜかというと、人間一人が一生をかけて知ることなんて、大した量ではありません。その上忘れもするし、間違いも犯す。きっちり決まりきったこの世界に対して、とにかく人間の心は不安定で、確実ではありません。
そのため、お釈迦様は「四苦八苦」という言葉を使って、この世は人間の願い通りにならない「苦」の世界だよ、と教えています。あやふやな人間が、このきっちりした世界で生きて行くのは、実はとても辛いことなのです。
しかしそうも言ってはいられませんので、人間はあの手この手を使って、少しでも楽になろうとします。
例えば、自分に都合のいい事だけ取り入れ、見たくないものは見ないようにしたり、思い込みによって物事を決めつけたり、負の感情を湧き上がらせて物事をうやむやにしたり…
仏教では、これを「妄想」と言います。人間は妄想を使って、自分に都合のいいように、苦しくならないようにと、この世を歪めて見ているのです。
つまりこの世がきっちりと決まりきった、「誠」の世界である事に比べて、そこに住む人間は無知で、自分に都合のいい妄想にまみれた、いい加減なものだという事を、自覚しなければなりません。
古代ギリシアのソクラテスという哲学者は、幸せになるためには、この「無知の知」こそが大切な事ですよ、と説きました。
さらに彼は続けて、人間が向上して行くためには「出来る限り神に似ること」が必要である、と説いています。
神に似ると言うと一見難しいように思いますが、単純に妄想に囚われるのを止めて、どこまでも学び続け、「自分を変え続ける」という事だと考えます。
おやさまはこの事に関して、「誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返す」と、仰せられました。
つまり妄想を払い、学びを続け、自分の行動が天の理に沿うようになれば、すぐに結果は出る、上手く行くよ、と教えて頂いているのです。
しかし、いざ「自分を変える」と言っても、具体的にどうしたらいいのでしょうか。
ここでもう少し、「心」について深めてみたいと思います。
おやさまは、心の使い方に対しては、「心通りの守護」と教えて下さいました。
★★★
心の理というは、日々という常という、日々常にどういう事情どういう理、幾重事情どんな理、どんな理でも日々に皆受け取る。
★★★
毎日どんな事情が起きたとしても、使った心の通りを受け取って、「心通り」の守護をして下さる。
私はこの事を、「使った心の通りに現実が変わる」という意味だと思っています。
なぜなら、この「使った心通りに、現実が変わる」という考え方が、色々な所で説かれているからなんです。
例えば、世界で2番めの大富豪、アンドリュー・カーネギーという人が、「成功者の共通点を探りなさい」、と、ナポレオン・ヒルという人に依頼したことがあります。
ナポレオン・ヒルは、カーネギーの教えを元に、世界の大富豪や、成功者500人にインタビューした結果、成功者は共通して「幸福度」が高く、ポジティブであるという事を突き止めました。そして、「思考は現実化する」という本を出したのです。
また、ジョセフ・マーフィーという博士は、「引き寄せの法則」という言葉を使って、「自分の心の状態通りに現実は引き寄せられる」という法則を主張しました。
辛い、苦しいと感じている人は、辛い苦しい現実を引き寄せ、幸せだなあ、満足だなあと感じている人は、幸せで、満足な状況を引き寄せると言うことです。
ちなみに「誠」という字は、「言った事が成る」と書きます。
日本には古来から「言霊」という考え方があり、それにも「良い言葉を発すると良いことを引き寄せ、悪い言葉を発すると悪いことを引き寄せる」と言われています。
言葉の裏には、心がありますから、このように多種多様、様々な所で、「心の通りに現実が変わる」ということが説かれているんです。
その中でも、マタイ伝という、新約聖書の一説に、「富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる」という一説があります。
これを心の状態に当てはめると、とても良くわかります。
多少辛いことがあっても、負の感情で心を濁さず、いつでも上機嫌で通る事が出来る、「心が豊かな人」は、更に喜べることを引き寄せていく。
対して、辛いことがあったからと言って、イライラもやもや、負の感情を使ってばかりの「心が貧しい人」は、さらなるイライラや悲しみを引き寄せて、どんどん不幸になってしまう。
つまり、こうなりたいと願ったからと言って、叶うものではありません。腹を立てれば、腹が立つことを引き寄せる。喜べば、喜びが喜びを連れて来る。毎日の生活の中で、自分が使った「心通り」の世界が、今目の前に表れて来ているのです。
今日のキーワードは、「心通りの守護」
私たちはつい、
「休みも給料も少なすぎる。もっと多かったら幸せになれるのに」
「あの人が変われば幸せになれるのに。あの人のせいで、自分は不幸だ」
「お酒、タバコがやめられない。環境が変わればやめられるのに」
と、やってしまいますが、それでは上手く行きません。
それは今、与えられている現状を喜べず、目の前の事に不足をし、湧き上がってくる負の感情に囚われている事に他なりません。
目の前で起こっている現実、「誠」の姿から目を背けて、自分の都合のいい「妄想」に囚われている姿です。
こうして現実の「苦」に負けて、不足をしたり、負の感情に囚われることは「心が貧しい」姿ですので、心通りに辛い現実を引き寄せてしまいます。
それに対して、
「時間も、お金も、豊かにして頂いて、本当に有り難い」
「あの人のお陰で、上手く行っている。お陰様」
「こんなに大変な中でも、健康でいることができて幸せだ」
こうして起きてきた事を喜べる人、楽しめる人こそ、上手く行く考え方の持ち主であると言えます。
これこそ「誠」の世界に向き合って、現実に打ち勝っている姿です。こうした「心が豊かな人」は、その心通りに喜びや楽しみを引き寄せて行くのです。
おやさまをはじめとした、聖人と呼ばれる人たちは、皆辛い環境にいました。
しかし、自分の置かれた環境の中で、自分が持っている幸せをしっかりと認識し、その喜びを味わい、感謝をして通った、その豊かな姿が周りと違って見えた。皆がついて行ったのですね。
つまり、「誠」というものをまとめると、
私たちは、生まれてから死ぬまで、神様の体の中で生かされています。そこは天の理に支えられた、一片の狂いもない「誠」の世界です。
しかし私達の心は、無知で、妄想に溢れた、弱いものですから、自分の都合のいいように歪んだ見方をしたり、思い込みで行動したり、負の感情で誤魔化したりしてしまいます。
こうして起きてきた現実から目を背け、自分勝手な「貧しい心」で通っていると、神様はその心を受け取って、更に困るような事を引き寄せ、運命はどんどん悪くなってしまいます。
多少辛い中でも、自分の持っている幸せをしっかりと喜び、起きてきた事に感謝して、明るく通る事は、現実に打ち勝った姿。誠に添った姿です。
こうした「豊かな心」を持った人は、更に喜べるような現実を引き寄せていきます。
こうして、嘘偽りの妄想に囚われず、この世界の「誠」真実に合わせて行動し続けて行ける人の事を、「誠の人」と呼ぶことができるのです。
どんな時でも、この「誠」を心がけて通らせて頂きましょう。
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