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第29回 心通りの話
ある時、お屋敷に五、六人の信者がお参りにきて、かんろだいの石に向かって拝んでいた。そこに巡査が来て「お前たち、こんな石ころ拝んで何するか、阿呆な奴め」といって石を蹴った。そこで信者の一人が教祖の元に行って「こんなもったいないことする巡査の足が折れたり、口が曲がったりする罰を当てて頂きたい」と教祖に申し上げた。すると教祖は「人が困るような、口が曲がったり足が折れたり罰を当ててくれと言うた者に、その理が廻ってくる」とおっしゃった。
天理教の教祖、「おやさま」が書いた書「おふでさき」には、こうあります。
「よき事をゆうてもあしきをもふても そのまゝすくにかやす事なり 」
(5-54)
今日のテーマ、「心通りの守護」とは、この世界において「自分の使った心が、そのまま返って来る」ということ。これはものすごくシンプルですが、この世界に働いている、一番強力な法則なんです。
よろこべば 喜びごとが よろこんで 喜びつれて よろこびにくる
悲しめば 悲しみごとが 悲しんで 悲しみ集めて 悲しみに来る
この歌こそ、心通りの守護を体現しているんですね。自分の置かれた状況が辛いからといって、人を恨んで、環境を恨んで、イライラしながら毎日暮らしてしまうと、イライラする現実が返ってくることになる。
逆に、どれだけ理不尽な中でも、毎日、ああありがたいなあ、楽しいなあ、幸せだなあと思って暮らすことができれば、その使った心の通り、明るい現実が返ってくる。
これは「自分の使った心の通り、現実が変わる」ということです。これって、すごいことなんですよ。
この教理を知るまでは、自分は非力な人間だから、周りを変えることなど出来ない、と思ってしまいます。(世界→自分)
しかし、「心通り」という法則の元では、わたしの心次第で、世界や、周りの人が変わっていく、ということになる。
つまりどんな人だって、自分の心の持ち方一つで、世界を変える事ができる。あなたがこの世界の主役になる、教えなんです。ここが、この「心通り」の教理のすごいところなんですね。
教祖は「自分の心が澄んだら、誰の顔みてもよい顔に見えるようになるで」「人が悪く見えるのは、自分の心が悪いからやで」という事をよく説き聞かされたそうです。
心が澄んだら 『みちのとも』昭和28年4月号「神一條の道~梅谷四郎兵衛~」
みかぐうたに、「鏡のごとく映るなり」と教えて頂く通り、現実とは私たちの心の中を映す鏡のようなものなんです。
あなたから見えるこの世界は、ありがたい、幸せなものでしょうか、それとも不幸ばかり、問題ばかりの世界でしょうか。
「自分の心が現実に現れてくる」わけですから、この世界が問題ばかりの、辛いものに見えている人は、自分の心の貧しさ、暗さが映っている。明るくて、豊かな世界に見えている人は、自分の心の明るさ、豊かさが映っているんです。
世界を見て、自分の心を正していく、ということが大切なんですね。
とはいっても、そんな綺麗事ばかりというわけには行きません。私も時には、これがおかしいとか、こういう部分が間違っているとか、理不尽だと、不足が出ることもあるんです。
しかし、この世界に文句を言うということは、私は鏡に映る自分の姿に文句を言っているようなものなんです。環境を変えようとすることは、鏡の中に手を突っ込んで、鏡に映るものを変えようとしているようなもの。そんなことはできないんです。
「鏡は先に笑わない」という言葉があります。
鏡というのは、こちらが笑うから、鏡の中の相手もつられて笑うわけなんです。つまり、あなたが変われば、それにつられて周りも変わる、ということですね。だから、この心通りという教理を教えてもらう私たちは、周りの環境を変えようとするのではなくて、どこまでも自分を変えていく事が大切なんです。
では、どう変えていくかという話ですが、
お釈迦様が、弟子を連れて托鉢に行った時のお話。
裕福な家が沢山並んでいるなかで、お釈迦様は一番ボロボロの家を指差し、「あの家から行って来なさい」とお弟子さんに言いました。
お弟子さんは不思議に思い、「こんなに沢山裕福な家があるのに、どうしてそんなボロボロの家から回るのですか」と伺うと、お釈迦様曰く
「人に与えることを知らないからいつまでも貧しいのだ。まず与えることを知らなければならない」と仰ったそうです。
教祖は、「人に与えると言うは、人に喜んで貰う、人に助かって貰う道」
明治10年11月23日 桝井伊三郎 村田幸右衞門 辻忠作
まずは人が喜ぶように、助かるように、「与える」ということが大切なんです。
与えられるものは、ものや、お金だけとは限りません。
笑顔を出して、愛を出して、お金を出して、テキパキとした空気を出して、明るい雰囲気を出して、周りの人を喜ばせて通るから、それが返ってくる。
時には厳しい言葉をかけたり、突き放すことによって、相手がたすかる、ということもあるかもしれません。
おかきさげに、「人のもとに足を運び、できる限りのことを尽くす中に、相手もお返しをしてくれるようになり、「助け合い」の姿が生まれてくる。
与える事によって、相手も同じことを返してくれる。これを心理学では「返報性の法則」と言うんですが、これを繰り返す事で、助け合いの姿が生まれる、ということです。
また、「天国と地獄の話」というものがあります。
天国にも地獄にも、食べ物が山のように積まれていて、長ーいハシが置いてあるんです。
地獄の住人は、どうにか食べ物を食べようとしますが、ハシが長すぎて、食べることができません。だからいつも空腹で、苦しんでいます。
天国の住人は、お互いにハシで食べさせ合うので、いつでもお腹が一杯で、幸せな気持ちなんです。
つまり、自分が自分がというのは、貧しい心づかいなんです。人を喜ばせようとしないその心通り、貧しい現実が返って来ます。この世界が地獄のように苦しいものになってしまうのです。
人に「与える」豊かな心で過ごすからこそ、助け合いの姿が生まれ、豊かな現実が返って来る。この世界が天国みたいになる、ということですね。
教祖も、「やさしい心にきりのないもの理がまわる。よき心にきりがないもの理がまわる。」『鍛冶丹源 深谷源次郎伝』(河原町大教会、昭和23年)
と仰るとおり、いいループを生み出して行くために、まず自分から与える事が大切です。
与える方向に自分自身を変え続けて行くことが、大切なことなのです。
最後に、この世界をどう捉えるか、というのは、一人ひとり違っているんです。
ある人の講話に、とある老夫婦がイチョウ並木の道を歩いていた。50年くらい一緒に連れ添った夫婦です。奥さんは、紅葉したイチョウの葉っぱを見て、綺麗ねえ、素敵ねえといってニコニコしていたが、旦那さんは下を向いて、実が落ちて臭いとか、掃除がちゃんとできていないと、あらばかり探していた。
夫婦ですから、置かれている状況も同じ、目の前に見えている風景も同じなのに、一人ひとり心が違うから、見えている世界が全く違うんです。
この世界には、私は病気があるから、不幸なんです。幸せに生きるなんて綺麗事であって、私は幸せにはなれません、という人もいれば、
私は病気があるけれど、家族や友人に囲まれて、幸せだと思っている人もいる。
自分を、貧しくて不幸だ、という見方をするか、豊かで幸せだ、という見方をするか。それすらも自分次第である、ということですね。
教祖が貧のどん底に落ちきられた時、お母様、もうお米がありません、水を飲めば水の味がする、神様が結構にお作りくだされている、というお話があるように、そもそも私たちは、この体が動くだけで、もう十分に幸せなんです。
さらにその上に、まだ、家がある、家族がいる、現代社会に住む私たちは、食べ物も山のようにあるし、車や飛行機、スマホにインターネット、これまでの人類が経験したことのないくらい、物もお金も時間も、絶対に持っているんです。
それなのに、持っている9割の物を全部無視して、足りない1割の部分にだけ囚われてしまうから、苦しみから逃れられないんですね。
だから、皆さんも、自分が不幸だと思いこんでしまっているならば、もっと自分が持っているもの、恵まれている部分に目を向ける事が大切です。
自分の使った心が返ってくる世界で、幸せになるためには、「今、幸せである」と感じる事以外にないんです。
足りない部分もあるけれど「自分は十分に恵まれていて、豊かである」と、満足して、周りに感謝して、恩返しをする。すると、その豊かで満ち足りた心の通り、あなたは豊かになる、ということなんですね。
自分が「幸せだ」ということに、気付くことが、運命を切り替えるコツなんですね。
まとめると、この世は「心通り」の世界です。
あなたの使った心通りの現実が、返って来るというルールがあるのです。
私たちはつい、不足に囚われて、苦しくなってしまいますが、自分が恵まれていて、豊かであることをしっかりと確認することが大切です。そして人様に与える心で通る所に、相手もお返しをしてくれるようになって、「助け合い」という姿が生まれてくる。こうして、豊かな心を持って、喜んで生きるからこそ、そのこころ通りに、現実が変わって来るのです。
かくいうわたしも、気を抜くと、出し惜しみ骨惜しみになってしまいます。けれど、文句ばかり言っていても、始まらない。無理なく、自分にできる範囲で、与えて通る生き方を、常に心がけています。
当たり前のことですが、こうしたことを常に忘れずに通らせて頂きたいと思います。