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「彼女は裸で踊ってる」へのラブレター

岡藤真依の描く女はエロい。でもエロいだけじゃない。

「どうにかなりそう」「少女のスカートはよくゆれる」「フォーゲット・ミー・ノット」「あなたがわたしにくれたもの」いずれの作品も、性を扱いながらただそれだけでは終わらなかった。

商業誌デビュー作「どうにかなりそう」では、思春期の性の美しいだけではない側面を丁寧にすくいあげ、続く「少女のスカートはよくゆれる」ではさらに進んでトラウマ・毒親・性被害などデリケートな問題を扱い、また身体障がいや同性愛といったマイノリティにも目を向けた意欲作を描き続けた。


「女に生まれてよかったって、いまは思えへん。けどいつか、死ぬまでには、よかったって思えるようにしたいな」


「少女のスカートはよくゆれる」の作中に出てくる台詞であり、また単行本の帯にも引用されているこの言葉が、岡藤作品の根底に一貫している。

最新作「彼女は裸で踊ってる」第一話に登場する犯罪者は一人だが、加害者はたくさん描かれている。性暴力の被害者に対して二次加害する上司だけでなく、女性の服装に非があるような言い方をする駅員、被害に遭った日に性行為を要求する無神経な恋人、見て見ぬふりの乗客たちもまた消極的な加害者と言える。わたしたちは誰もが加害者になり得るのだ。

そして主人公の綾もまた、自分を助けてくれたかおりに対して彼女の職業を侮辱する発言をぶつけてしまう加害者となる。その背景には、彼女が「女に生まれてよかった」と思えずに生きてきたことが濃く影を落としている。

作品の冒頭に「私はいつまで立っているだけで性の対象にされるのだろう」というモノローグがあるが、これは痴漢被害だけを指すものではない。美しいか醜いか、若いかそうでないか、「いける」か否か。ただそこにいるだけで一方的なジャッジに晒される。これは必ずしも女性に限ったことではなく、誰もが味わったことのある嫌な感覚ではないだろうか。

そうした視線に晒される世界で、自分の身体を愛していると心から言える人はどれくらいいるだろう。ふと見渡せば、広告は整形や脱毛/増毛、ダイエットに包茎手術など、身体に手を加えることを促すものが非常に多い。よりよい身体へ、より愛される(認められる、求められる、馬鹿にされない)身体へ、といった暗黙のメッセージに、わたしたちは常に暴力的なほど晒されている。

そうした息苦しい世界に風穴をあけるのが、もう一人の主人公ともいえる桃尻かおりである。


「女でいるってきっといいことあるよ」
「女の体ってエロいだけのものじゃないんよ それを…恥ずかしいとか隠すべきものにしちゃうのって それって自分の体を否定することになるんじゃない?」



そう明るく言ってのける彼女の『命を燃やすように踊る姿』を見た綾は強い解放感に包まれる。そして、これまでの抑圧から解き放たれたことで鮮烈なエクスタシーを感じる(なおアプリのコメント欄がややざわついたキスシーンは漫画的ファンタジーであり、ここでは「身体的触れ合い(セックス)よりも心の触れ合いが本当の快楽に繋がる」ことを表現したものだとわたしは解釈している)。

本当に気持ちいいと感じるためには、まず心が裸にならねばならない。そうした信念は、続く二話からも窺える。
すべてのひとが自分の体を愛することを応援してくれる、だれも一人にしない物語。「彼女は裸で踊ってる」の続きが待ちきれない。

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