私が写真を撮って文章を書く理由
ずっと、自分は「器」の側にしかいられない人間だと思っていた。
「思っていた」とか過去形で書いたけれど、本当は「思っている」が正解なのかもな。誰かの生み出した素晴らしいコンテンツを、ただ受容する、「器」の側の人間。受け取ることしかできない人間。
「うちの一家には芸術の才能はないからね」
昔から聞いて育った母の言葉。確かに親戚を含めて、いわゆるクリエイティブな仕事についている人は知らない。
オール5に近かった小中学校の成績も、音楽や図工はいつも4だった。そのたびに、「芸術の才能はてんでだめだね」なんて親と一緒に笑っていた。内心はちょっぴり寂しかったけど。
お話を書いてみようとしたこともある。でも、自分の中から湧いてくる物語なんて一つもなかった。悲しいくらいに、空っぽだった。
創造力がないんだといつの間にか諦めて、なんとも思わなくなっていた。
物語を読むのが好きだ。でも、書けない。
絵を見るのが好きだ。でも、描けない。
音楽を聴くのが好きだ。でも、歌えない。
自分の創り出すものが好きになれなくて、いつしか何かを発すること自体が苦手になっていた。
「たぶん」とか逃げの言葉をすぐ使っちゃう。今の自分が抱いている感情が正解かどうかわからない。容姿も性格も才能も、これといってすごいセンスがあるわけでもない自分に自信が持てなくて、とうとう20年以上もふにゃふにゃと生きてきてしまった気がする。
でも、とうとう見つけた自分の好き。
というか、去年くらいにようやく気付けたこと。
自分の中にお気に入りを見つけられるから、写真と文章が好きだということ。
特に飛びぬけた才能があるとは思っていない。けれど、私の撮った写真は私が一番好きな自信がある。荒削りでも、ウンウン唸って頭を捻りながら書いた文章は、どれも私のお気に入りだ。やっと見つけられた自分の中の好きは、他人との比較なしに大事に持っておきたい。
自信を持つというのは、自分の中に好きと思えるものを見つけることだったんですね。才能がないと言われようと、好きじゃないと言われようと、でも私はこれが好きだよと言えるもの。きっと私が今まで享受してきた素晴らしいコンテンツたちは、それを生み出す人たちが、自分はこれが好きだと自信を持って貫いて、追求し続けたからこそ誰かに響くカタチへと昇華したものなんだろう。
「自信過剰はいけないけれど、等身大の自信は持つべきだ」という素敵な言葉に出会いました。
ふにゃふにゃ人間ではなく、しっかりと芯の通った人間であるために、私は私の好きを持ち続けていくよ。
最後に何枚か、お気に入りを残しておきます。