腹の底から笑ってくれ
わたしには、自分を自分で褒めたくなる瞬間、自分を誇らしく思う瞬間がある。
それは、人を笑わせたときだ。しかも「もうやめてくれ」と言うほど、腹の底から笑わせたとき。
最近になって急激に「人を笑わせたい」という欲求が強くなり始めた。
息ができなくなるまで笑ってほしい。自分が言ったことで人が笑うのが嬉しくてうれしくて、しょうがなくなり始めた、34歳である。
芸人を目指すわけでもないし、ギャグ漫画を描こうと思っているわけでもない。「夏野さんっておもしろい人だね」というレッテルが欲しいのではない。
ただ、腹の底から笑うという体験は、大人になればなるほだ得にくいものだ。
最後に腹の底から笑ったのは、いつか
「そういえば、最近腹の底から笑ってないな……」と思うことが定期的にある。
腹がよじれるほど、息ができなくなるほど、涙が出るほど笑うこと。ツボにはまる、という表現をすることもある。それらは、年齢を重ねるほどなくなっていく気がする。
瞬間的に軽くはじけるような笑いが起こることや、ニヤニヤしたり、ちょっとした笑いをこらえたりすることは日常的にある。でも、あの「息ができなくなるほどの笑い」っていうのは、貴重な偶然のたまものであり、意図して得られる体験ではない。
思いきり笑いたいなと思ってお笑い番組を見ても、実際そこまで激しくは笑えない。前回の飲み会で大爆笑の連続だった友人たちに会ったけれど、今回はちょっとしんみりとした話が多かったな……なんてこともある。
笑いは、欲しいと思ったときにもらえるものではない。
「日々のいろんないらだちを忘れたい」「誰か私を笑わせてくれ!」
そういう期待値が高ければ高いほど、笑いは生まれにくくなるのではないか。
「優越」と「ズレ」のミックス
日常で使いやすい笑いは「優越」と「ズレ」だ。
「優越」とは、人の失敗や粗相などを笑うこと。ドッキリや、体を張った芸などは「自分はそんなことしない」「そんなリアクションは変だ」という優越の気持ちから生まれる笑い。
もう一つの「ズレ」は、一般的な道理や流れ、想像から外れることで生まれる笑いだ。想定外のもの、予期せぬ展開。いわゆるどんでん返し、オチのある話などだろうか。
わたしはこの2つの優越とズレをミックスさせるのが好きなのである。
自虐は優劣+ズレで新しい感覚を与える
自虐は、比較的簡単な笑いのネタだ。
笑いの理論でいうところの優越は「他人を笑って、自分が優越感を得る」という理論だけれど、大人の日常で使えるのは「自分を笑ってもらって優越感を得てもらう」になるだろう。これはどこでも使える。
話の大枠は「いかに自分がダメ人間であるか」についてだが、それだけではだめだ。そうなった経緯、なぜそういう行動をとるのかという非常に微細な部分にこそ笑いが生まれる。
普段はそこまで説明しないしあえて言わない、みんなけっこうそういう経験はある(思ったことがあるだけでも)けど、言葉にしたことがない部分に笑いが起こる。この微細な解説の部分が、一般的な道理や流れ、想像から外れるような「ズレ」の役目を果たすのだと思う。
よくある失敗かもしれないが、なぜそうなってしまうのか、そのあとどうやってリカバリーするのかとか、そういう「よくある事象に隠された新しい発見」みたいなものが、ものすごくウケたり人の興味を惹き出したりする。(自分統計上)
だからこそ、単なる自虐で終わらないように「ダメ人間エピソード」で優越を「ダメエピソードに関する解説」にズレを持ってくるようにしているんだ。
自虐は簡単なようで、実は匙加減が難しい。場合によっては相手が引いてしまうし、軽蔑されることもあるしリスキーだ。それに、自虐ばっかりでうっとおしいと感じられる可能性もあるので一辺倒で使い続けると飽きられる。
子どもにはズレの理論
子どもには、ズレの理論がとても効果的である。わたしの最近のハイライトは「学校に行きたくないな」「このままダラダラと眠ってしまいたい」という子どもに対してズレの理論を応用したことである。
学校に行く時間になっても子どもがダラダラしていて支度が遅いとき、発破をかけて「ほらほら!早くしなさい」なんて言っても、互いにイライラするだけなのはこれまでの経験から嫌というほど学んでいる。
ここで、ズレの理論を使うのだ。
子どもが「早くしろと言われそう」「今にも母親のリマインドが飛んできそう」と思っているシーンで、全く逆のことを言ってみるのである。
子「寒い……眠いし行きたくない……」
母「確かに。
あぁ……働かないでお金貰てぇ~」
子どもは大人と違って、これだけでも簡単に笑ってくれる。「そんなこと言わないでほら、頑張りな!」などと励ますのが一般的だ、という流れで、こっちが超絶ダメ人間な発言をするのだ。
すると、笑いながら
「あ~おれも、勉強しないで頭よくなりてぇ~」と返してくる。
ここから解像度をどんどん上げていく。
「服脱がなくても着替えてぇ~」
「あ~歯磨かなくても口くさくなくなりてぇ~」
「あ~立たなくても歩きてぇ~」
〇〇しなくても△△できるようになりたい、という願望をどんどん今の状態に近づけながら、大喜利をしていくのだ。
すると、さっきまで寒くて眠くて、学校行きたくないモード全開だった次男が「笑いすぎて靴が履けない」状態にまで変化する。
ズレの理論は「100%こうなるだろう」という流れの予測を裏切ることが重要なので、意外性を突けば簡単に笑いになる。
母親っぽくない発言、流れをぶった切るようなセリフ、大人がそれを言っちゃうか!というようなこととか。
ただ、子ども相手の場合は「笑わせよう」という気持ちではなくて、本音を言ったり、一緒にふざけたりする共同体感覚のほうが大事なのかもしれない。
心からおもしろいときに笑ってほしい
偉そうに理屈を並べたが、普段からここまで考え抜いて話をしているわけではない。感覚的にしゃべっている。
それに「人々を笑顔にしたい」というわけでもないような気がする。
たぶん、わたしは自分の攻撃性を「笑い」で消化しているだけなんだと思う。笑いのきっかけを自分が作れたことに対して、大きな満足感や達成感を覚える。
それに「笑わせたい」と密かにもくろんでいる、自分と同じような者が近くにいたら、ライバル心を燃やすのではないかとも思う。些細な日常や心の描写をおもしろおかしく、上手に話す女性がいたら、きっと嫉妬するかもしれない。そこに自分の隠れた攻撃性を感じたりもする。支配欲求なのではと思ったりするが、その話をすると話が長くなるし逸れるので今日はやめておこう。
でも、笑うことが心と体にいいのは間違いない。愛想笑いでも、表情だけ作るのでも効果的っていうけれど、わたしはそうは思わない。
愛想笑いは疲れる。おもしろくないのに笑うのはしんどい。
だったら、本当におもしろいと思って笑ってほしい。お腹が苦しくなるくらい笑ったほうが100倍スッキリする。
みんな、腹の底から笑ってくれ。心からおもしろいと思ったときに、思いきり笑ってほしいのだ。