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もっと「自分語り」しよう
「最近仕事どう?」「今日学校どうだった?」
こういう質問は、何の意味も持たない。
ボヤっとした質問には、他意が含まれていることが多いのではないか。
私の場合、子供に「今日学校どうだった?」と言っても、なかなかこちらが求めているエキサイティングな話題を提供してもらえることはない。
それは何故かといえば、そこには「何でもいいから、話さなきゃ」という焦りしかないからだ。
家族が集まる食事の場面では、ついつい「今日学校どうだった?」という言葉を投げかけてしまうこともあった。
でも、自分が「お母さん、今日一日どうだった?」と聞かれたと考えてみたら、正直何を話せばいいか分からない。こういうざっくりした質問を投げかけられると「相手が求めているのはどんな話題なのか?」ということを、無意識に選別してしまう。それに、突然今日一日のできごとをまとめろと言われても、上手く表現できない。
しかも、相手が本当に知りたいことは「今日一日どうだったか?」ではないはず。きっとそれは、質問した人にもやんわりと伝わっている。だから会話が盛り上がらないのかもしれない。
人は、相手がどんな感情を持って話しているか、無意識に感じ取っているものだ。少なくとも、「今日どうだった?」「最近どう?」というあいまいな質問に、喜びや興奮は感じない。よほど心に残るできごとやハプニングがない限り、この質問に率先して答えようという気持ちにはならない。
「会話」というのは、誰かの感情に対して、自然に生まれ、発展するもの。
「さぁ!今から話しましょう!」と改めて言われても、誰も話したい気持ちになんてならない。誰かの何気ないつぶやきやひらめき、行動への突っ込みなど、ひょんなことから始まるものだ。
その、ひょんなことというのは、わざわざ作るものではなく、自然と生まれ、気付いたらそこにあるものなんだと思う。
例えば、私が
「今日本当はね、疲れちゃって出来合いのお惣菜を買おうか迷ったんだよ。でも、作り始めたらこんなにたくさんの品数ができちゃった。やり始めると、意外にできるもんだね。」
と言えば、長男が
「あぁ。俺もそういうことあるよ。宿題がいっぱいあるから嫌だなって思っていたけど、やり始めたら意外とすぐに終わってびっくりすることあるよ。」なんて、共感エピソードを話したりする。
すると、それを真似して次男が、ありもしないエピソードを話し出して、父が「あはは、それ本当か?」なんて言って笑ったりする。
これが、会話なんだ。
本当に会話がしたいとき、「どうだった?」とか「調子どう?」なんて、相手に話の道筋を委ねるようなことをしても意味がない。
久しぶりに会う人で、積もり積もった話がある関係ならば別だ。会話のリズムをとるためには、こういう入りもあると思う。
でも、自分が相手と会話したいなら、まず自分の感情を出して、見せるべきだ。相手から無理やりなにか引き出そうとしても、相手は心を開かない。思うように事は運ばないものなんだ。
自分のことを何も話さない人に、自分の話をどんどん聞いて欲しいわけがない。まずは自分が開示して、そこに同調したり、反論したりしすることで、会話は有意義になる。ビジネスシーンや恋愛関係ではこういうノウハウはすでに常識なのかもしれないけれど、一般の家庭の中ではそうでもない。
会話がなくて困っている家庭というのは、ほとんどが「感情を素直に見せられない」というところに原因があるのではないかなぁと思う。
誰かと楽しく話したいなら、自分から話題提供すべきなんだと、痛感した。家族の中でこそ「自分語り」をするべきなんじゃないかと思う。
家族でも、友人でも、仕事場でも。SNSでさえ、そうなのかもしれない。
だから、自分の感情をもっと話そうと思う。小さなことでもいいから、もっと自分のこと話そう。他でもない、大切な相手のことを知るために。