自分がないので、社会的存在感がありません

先日、この本にたまたま出会ってからというもの、この中のひとつの章をずっと繰り返し読んでいる。寝る前に布団に入って読んでいると温かい気持ちになる。

この本は、私が知らなかったことを教えてくれたし、私をわかってくれた。


親との繋がりを持てなかった子の不思議な訴え

私は2年前、このような記事を書いた。


母は何らかの発達障害やパーソナリティ障害を抱えていた可能性が高く、子どもを育てることがとても苦手な人だったのだろうと思っている。この頃からもう母に対して怒りや恨みというのもはなくなっていったけれど「でも、なぜか腑に落ちない」という日々が続いていた。

◆「早くこの人生が終わって」

この本の第4章「親との繋がりを持てなかった子の不思議な訴え」という見出しがある。42歳になる女性のカウンセリングでの訴えが、自分の感覚と酷似していた。

この女性の語る内容の中に「早くこの人生が終わって」という一文がある。私にも、まったく同じ感覚がある。今を生きている実感が湧きにくく、満足や達成感がない。この本に出てくる女性も私も、とても普通に幸せに暮らしているんだけれど、どこかで「終わり」を目指しているところがあって「早く終わらないかな」と思っている節がある。

落ち込んでいるわけでもなく(本の中の女性は落ち込んでいてカウンセリングを受けているが)人生を終わらせたいネガティブな願望があるわけでもなくて、ただ毎日ゴールを目指しているような感じ。生きるということが、仕事であるような感覚。それは私にとって、わりと普通なことだ。

◆「社会的な存在感」がない

さらに「社会的存在感」について書かれた内容が、私が長年感じてきたことにぴったりと当てはまるので驚いた。親のポジションをしてくれる人がいなかった場合、「自分が社会に存在している」という実感がもてないことがあるそうだ。

社会的存在感がないとは、どういうことか?

これは、社会的存在感がない人の感覚の「極端な例」として著者の方が書いたものだ。しかし、私は毎朝これと同じような感覚をもっている。「なんで朝ってこんなに不安なのかな」と思ってはいたのだが、これが普通ではないというのは初耳だった。

また、別の29歳の男性のケースでは孤独感ではなく「孤立感」について詳しく語られている。

私は普通に、一般的に生きている。家族もいて、友人もそれなりにいて、何も困っていることはない。でも、どうしてか「人と自分は別の世界を生きている」ように感じることが多かった。孤独なのではなくて、孤立感があるということだ。

私もこの男性と同じく、親子関係や心理のことを今まで長いこと調べ続けてきた。でも、どこかに不全感が残った。

もちろん、発見したこと、わかったことに心動かされてはきたけれど、これでスッキリという感じはどうしても得られなかった。だから、また引き続き調べることを続ける。ただ、それでも解決しないから「いつまでも過去のことばかり考えている自分がみっともない」というように思えてくる。子どもだの、甘えだの、弱いだのと自分を否定するようになって、もう親子関係や心理のことを考えたくなくなっていた。

でも、それはどうやら「親子関係」を知らないことに原因があるみたいだ。

これら強く共感した事例は、どれも親が発達障害を抱えていた人のカウンセリング内容で、自分ととてもよく似ている。

親は子どもと社会の仲介役

子どもは、母親を通じて「世界」「自分」「他人」を知ることができるらしい。社会を知るには、親が子どもと社会の間に仲介役として入ってくれるものなんだ。

一応私も子どもを育てているので、そう言われてみれば確かにそうだと思う。でも、自分が子どもとしてどんなふうに社会を見てきたのかがまるで思い出せない。社会が何なのかが、全然わからない。

断片的に、親が語ることや、記憶がちぐはぐに切ったり貼ったりされている。自分がそうやって生きてきた時間と、社会で流れている時間は別のものであるようにも感じる。

「社会に自分が参加している」という見方を、したことがなかった。社会に自分がどう関わるかとか、社会って総合的にみてどんなものなのか、考えてみるけど混乱する。

社会とは、どこか別の世界であって、自分とは切り離されているもののような気がした。ちなみに私は色んな記事でついつい、社会ではなく「世界」という言葉を使いがちなんだけれど、それは認識している空間が違うんだと思う。

親は、子どもが最初に出会う人生モデルであり、参考にする一つの目安である。私は「何をモデルにして生きてきたか?」を思いうかべようとしたが、何も浮かんではこなかった。私はイメージや意味付けがわりと得意なのだけど、これに関してはぽっかりと真っ白な空白だった。抜け落ちている。

しかし、実際私は社会の中で生きている。この矛盾、2つの世界をスムーズに行き来できない感覚がとても強い。昔、田房永子さんが「A面とB面を生きている」というようなことを書いていたのを思い出した。

社会と関わるときの自分はA面であり偽物感がある。自分の存在は常にB面にあって、偽のA面と真のB面を行き来するような毎日。そんな感覚である。

親を介して自分を知る

子どもは、親に自分の気持ちや意見を話し、反応を見る。親の反応によって、自分が何を感じているか、何を考えているかを認識して、それを積み重ねていく体験が大切。言われてみれば、当たり前のことだとわかる。

しかし私は、それはどういうことなのか、恥ずかしながら今まで考えてこなかったことに気づいた。「親の反応を見ることで自分がわかる」という発想も、体感もないからだ。

母親は、社会にまだ認められていない子どもの、最初の窓口になる。何度も何度も、母親に自分の気持ちや欲求、意見が通過する体験を経てはじめて、その先の誰かほかの人や、社会に届くことになる。

母親は、やっぱりその窓口として、中立的な視点で子どもの意見を「一度預かる」ことが必要なのだろうと思った。基本的な人間関係が不得意な親をもつと、どうしてもその窓口は閉じてしまうのだろう。

私たちは、社会へのつながり以前に、自分の気持ちや自分に起こったできごとが一般的にはどんなものなのかも、知ることができなかったのだ。

衣食住の世話をしたり、子どもに教育を受けさせたりするのは「親の役割」ではなく「親の義務」である。子どもに必要なのは「社会」と「子ども」の間に仲介役のような感じで間に入ってあげることなのかもしれない。それが、精神的な親というものなのだろうか。

だからこそ、親は子どもの前ではニュートラルな視点でいるのが理想的なんだと思う。仲介役がめちゃくちゃの理論でキレたり、感情的に泣いたりわめいたり、自分の欲求をぶつけたりすることが、人間の将来にどんな影響を与えるのか、ちゃんとわかった気がした。

「子どもの気持ちをわかってあげることが大事」

これだけを言葉として並べても、正直私は今までうすっぺらい感じがしていた。「そうするといいらしい」という、2次情報的な感覚しか、なかったように思う。なぜ、受け入れることが重要なのか、体感的にわかっていなかった。

しかし一連のことを経て、やっぱり「気持ちをわかってあげる」「いったん受け入れる」ということがいかに重要なのか理解した。

子どもが「世の中」と心を通わせるためには、仲介役の親に一度気持ちを預ける体験が必要なのだと知った。

この本によれば、私たちのようなケースは母親がいなかったのと同じであるという風に書かれている。そういえば、私は「お母さんいるけど、お母さんが欲しい」という記事を書いていたなぁと思い出し、おもしろいほどに辻褄が合っているようにも感じた。

人の気分や感情に左右されるのは、当然として受け入れる

きっと私は、まだ自分をよくわかっていないので、人の気持ちや感情に左右されてしまうのは当然のことであると考えるようにした。

HSPという気質をもっている場合、人の感情に振り回されたり共鳴したりしてしまうことがあるとされている。私もずっと、自分は他人に同調しやすく共感しすぎる気質をもつ種なのだと思ってきた。

でも、ここまで理解したあとはそれが気質であるかどうかは、正直疑問しか残らない。確かめようもない。

自分が何を感じているか、何を求めているかがわからないし、感じたものが「社会的にどうであるか」も、まだよくわからないわけだ。

母親というポジションがいなかった私たちは、常に他人や社会がどういうものなのかを観察し、比較し、吟味し、俯瞰しながら「作り上げてきた」ということになる。だから、敏感で繊細であって当然。その特徴にどんな名前がつくのかなんて、私はもう正直どうでもいい。私は、よくやってきたんだなと思ったからだ。

そんな自分は、どうしたって人と接していると「自分はどうか」とか「社会的にどうか」という結論を出すまでにかなり時間をくってしまう。だから、やっぱり自分の中から湧いてくるものというよりも、目の前の今大事だと思える人の意に添うように振舞うことも、生き方のひとつではないかと思う。

誰かの機嫌が悪そうなら、なにかできることはないかと探す、アイデアを出す、試行錯誤してみる。ダメだったらあきらめて、黙っていればいいと思うようにしている。たいてい、何かをやってみてもあまり意味がないので、結果黙っていることの方が多いのだけどね。

ただ、自分の今の生活に重要ではない人の気分に左右されることはだいぶなくなった。というより、私が不用意に人と接しなくなったことや、「普通」に合わせて言動することがなくなったせいもあると思う。要らない人や場所は容赦なく、さよならする。自分から迎合しない。

「私には自分というものがないのだから、それなりの生き方をしなければいけない」と自分に厳しくしているような感覚である。

その代わりに、私を必要としてくれる人や自分の家族には、振り回されてもいいと思うことにした。ただ見ているだけでも、一緒に体験しているだけでもいい。もし「感じたくない」と思ったときは、その場を離れるか意識から外すように訓練する。そんなことを毎日する、ほとんど修行である。

自分がこれを心からやりたいのか、自分の心の声とは、本当に望んでいることとは、自分とは何か……そういうことを考えると余計につらくなってしまうことがわかった。そのとき誰かに求められたことや、必要性に駆られたことを淡々とこなしているだけでも、それなりに勉強になるし、小さな楽しみや幸せもちゃんとあることがわかる。ちゃんと道ができる。

あまり突拍子もないことが起きない、淡々とした日本映画が好きでよく観るのだけれど、そういう映画を見ているのと同じ感覚なのだ。人に振り回されて泣く人や、微妙な感情と葛藤している人を、ただ外から眺めている。それで、自分もその人の一部を一緒に生きたような錯覚を得る。そういうことと同じで「自分」や「主体性」をどう扱うかは、自由であると思う。

社会的存在感がないので「別の世界」にいる誰かに「これをお願いします」と言われたら、それをやる。それが、私にとって社会とつながる窓口になっている。

自分がない、自分がわからない人を救うものは芸術や自然であるということもわかった。この本の同じ章にも、女性がふと思い立って美術館に行ったときに「自分が今何を感じているか」に気づいた瞬間の感動について触れられている。

音楽とか、本や漫画、映画といったもの。サブカルチャーだって創作や表現という芸術の一種である。何の意図のない、自然も好きである。とにかく理由なく好きなもの。「なんで私こんなもの好きなんだよ」と笑えてくるようなものや「私こんなところで何やってんのかな」ってふと我に返ったりするときに、最高の幸せを感じはしないだろうか。

私たちは最初から、理解されることをあきらめてしまったので、今から巻き返そうと躍起になる必要などまったくない。ないものを、あることにして生きるのではなく、最初からなかったのだと知れば「じゃあどこにあるのか」「どんなもので代替するか」と探すしかない。きっと、多くの人がそうやって生きているんだと思う。同じ思いを抱えながらも、自分の世界をつくってなんとか生きている人は、私が想像するよりもたくさんいるように思う。

どんなに親しい人にも、自分の本当の話をすることができない人。何をどこからどう話せばいいか、わからない人。自分の話が人に通じる気がしない人。何を訴えたらいいのかわからない人。社会的存在感がないって、そういう人のことだから。

わかってもらうというのは、必ずしも人からの共感でなくてもかまわなくて、言葉や脈略がなくても通じる「自分にしかわからない世界」をつくることも同じ価値のある体験になると思っている。

この本はたぶんしばらく何度も読むと思う。その行為は私にとって、自分の感動を何度も誰かに話して聞かせるのと同じことなのだ。自分にしかわからない世界を楽しむしかないのである。本書の中には、虐待のある親子関係や一般的な親子関係についても書かれているので、また考えたことを書き留めたいと思っています。読んでくれてありがとうございました。

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自身の体験から、どのように過去の記憶を乗り越えたのかを電子書籍にまとめています。

「自分の感情がわからない」「つらいと思っていいのかわからない」「過去をどう捉えていいかわからない」「トラウマを手放して明るく生きたい」このような、幼少期のトラウマが「未解決」のままになっている人や、どんなことも過去の体験と結び付ける思考をやめたい人に向けて書いています。ご興味のある方はぜひご一読いただければ幸いです。


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