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忙殺

昨年の秋頃から今までずっと、息つく暇もなく、忙しかった。休みの日などない。土日も祝日も、何かしらすることがあり、常にタスクが溜まっている。休むとしたら子どもが熱を出したときに、じっと家にこもるときだけ。

30代、半ば女。
お金に直結する「仕事」もあれば、お金にならない「しごと」もある。厳しいときは家族に頼ればよいものなのかもしれないが、わたしも夫も両方、お金のための仕事と、お金にならないしごとを抱えているものだから、なかなかパートナーを当てにすることもできず、本当に、ギリギリなんとかなっているというかんじ。

おまけに、両親がこんなに過重タスクを抱える年に長男は高校受験だ。受験といっても、それをこなすのは本人なので、親は塾の日に弁当を作ることくらいで、何もすることはない。体調や、日々の機嫌や調子に気を配ることくらいしかできないものだ。

そんな今年度は、本当に「忙殺」という言葉が、ぴったり似合う1年間であった。やってもやっても終わらない仕事、捌いても捌いても、なくならない作業。文字通り、忙しさに殺されるのではないかと思うほどの過密スケジュールをこなしたことは、これまでなかった。

あまりの疲労と緊張感で、わたしはダウンすることもしばしばだ。でも1~2日休むとまた元の忙殺スケジュールに戻れるのだから、我ながら関心である。それが、いいか悪いかは別として。

他人の心に寄り添えなくなった

そんな、過去に類を見ないほどの忙しさをなんとか切り抜けてきて、思うこと。

それは「自分という人間が、ものすごく気が強く頑固な性格である」という認識になってきたこと。わたしは、ここ数年間にかけて毎年、メンタルが強靭になっていくのを感じるのだけど、「忙殺」されていると本当に他人に対して優しく寄り添う、みたいなことができないのだ。

他人を察してあげること。相手の求めている言葉をかけてあげること。相手が欲しい質問を返すこと。相手が望む反応を返すこと。

そうは言っても、できないよね
頭ではわかっていても、無理なこともあるよね。

そういう
いわゆる「寄り添い」のような気持ちが、忽然と消えてしまう。

空気を読んだり、同調したりすることもできなくなった。人に合わせるということが、本当に無理になった。

さぁ、こう聞くと
「あぁやっぱり、忙殺されているってよくないよね」
「忙しさは人のを殺すものね」って
思うかもしれない。

でも、そうじゃないんだよ。

今自分に必要なのは何だろう

忙しければ忙しいほど「今の自分に必要なもの」にしか、関われなくなる。当然のことだ。

本当に身の程知らずで申し訳ないのだが、私が今時間を避けるのは、本当に自分が心地よいことと、興味のあることと、楽しいことと、やらなくちゃいけない必須のタスクだけだ。大好きなあの人からもらったプレゼントもまだちゃんと手に取れていないほど、自分の興味関心にしか、意識が行っていない。

これを「ダメだ」「無礼」と思って自責すると、今度は他人を攻撃してしまうから、今は私が忙殺されすぎているのだから仕方がないと思うようにしてい。

忙しさに殺されかけているのに、そんな人をあえて追い込んだり責めたり、誹謗中傷することはないじゃないか。

自分自身に対してもそうだし、他人に対してもそうだ。
こんな忙しさが、ずっとは続かないこともわたしはよくよくわかっているのだから。

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