つまらないものばかりの世の中で、それでもまだ見ていたいもの
結局の所、この世はつまらないものばかりだ。生きることは基本的に退屈で、つまらないものに目が行くことが多い。
「面白い」と感じる心を取り戻さなければ、全てがつまらない。
ただ、「完全性」というものは、存在し得ないから、"完全に"つまらないものなんてものは、この世には存在しない。
だから、全てがつまらなく感じても、その中でも"つまらなくないもの"を探す。
何がどうなっても無関心でどうでも良くて、心が動かなかったとしても、それでも尚惹かれたりするもの。
これだけ無関心だった自分が惹かれるものなら、なんとなく行き着いた場所だろうが、それは縁起が紡がれている証拠だろう。
ご縁と呼ばれる「縁起」だけは未だ不思議で、関心は尽きない。
「説明のつかないもの」にはすべて興味がある。
基本的に、極論自分の事以外何もかもどうでもいい。
他人がどう生きようが、死を選ぼうが、生を選ぼうが、さして関係ない。
きっとそれは、「説明できてしまうもの」だからだろう。
"説明できる人生"などこの世に何一つ無いのに、「説明できる人生だ」と当の本人が思っている。そして、無知の知を知らない人間ばかりだ。
当人が思うより、私達は無知なのに、それを知らない人間があまりに多くないだろうか。
「説明できる」と思い込んでる世界など、尚つまらない。
所詮、「そんなもの」だ。
私が、きっと死ぬ前も思い出すであろう感情に紐づくできごとは、2つだけある。
一つは、フィリピンで感じたあの何とも言えない一体感。
二つは、ヨルシカのナブナさんの歌に心が救われたあの瞬間。
どちらも共通してるのは、到底受け入れられやしない目の前の現実を目の当たりにして直視できない自分へ、自己受容の入り口を教えてくれたことだ。
また、どちらも人生のフェーズで言えば、どん底に居たことだ。
「心が動いた出来事はなんですか?」と聞かれれば、この2つが必ず出てくる。
自分が、心から大事にしたいものだけを大事にしたらいい。
大事にして、時の流れに身をまかせていれば、自ずと大事にしたいものがもっとハッキリしてくるだろう。
必要なものは、必要なときに「必要だ」と感じるようになっている。
必要でないものは、必要でないとき「必要だ」とは決して感じない。
必要のないものなんかどうでもいいから、そんなものに時間を割くくらいなら、他のことをしたほうがいい。もっと大事な物だけに目を向けてればいい。