カナルタ
没入感がすごかった。4Dよりも体感できる映画。虫の声、暗闇、絡みつく熱気、発酵するチチャ(発泡酒)、チチャのポコポコする音・・そういうものをじっとみている内にふっと意識が飛んでさあっと風が吹いてくる。気持ちがいいだけではない、主人公のセバスティアンが森を登る、だんだん疲れてくる、身体が熱くて水が飲みたい、蜂がそばにくる、払うと言った不快感もリアルに感じられて正にぞわぞわした。
どうしてこんなに没入感があるのか、もちろん監督とセバスティアンの間に信頼を超えた何かはある、監督のテクニックもある、でもそれ以上に二人の外界に対しての「開き方」みたいなものが似ていると感じた。それが共鳴しあって映像から奇跡みたいな瞬間がたくさん生まれて・・・。
参加者からの質問でこの映画を撮って監督自身一番変わったことは何か、という質問があった。すべては繋がっていると本当に思うようになった、というようなお答えだった。すべてはつながっている・・・セバスティアンが所々歌を歌う場面がある。あれは森に対して、精霊たちに対して歌っているのだと思ったけど世界に向けて放たれていた。それはセバスティアンだけが例外ではなく、私たち一人一人は毎日世界に向けて何かを放っている。それが巡り巡って帰ってきて・・・
太田監督のツーイトが流れてふと思ったこと、ドキュメンタリー映画監督想田和弘監督の話「精神」をニューヨークでみせた時「出ている方の大半は日本でなくニューヨークに住んでいたら人気者になる素養があるんじゃないか」とある方がおっしゃったというエピソード。
精神病というものが、ある意味所属する社会との関係で決められる、同じ人が違う社会に行ったらそれが病気ですらないということがありうるのではないか
私もそれは強く感じていて例えば統合失調症と言われる人は場所や時代が変われば神託を受けるシャーマンになり得るところとか。そんな極端な例じゃなくても場所やタイミングを変えただけで全然違う結果になることって案外多い。きっと今はダメなだけ、その場所が合わないだけなのに自分や周りを責める人が多いことは悲しいことだ。
シュアール族の生活と私たちの生活とどちらが当たり前なのだろう。特に日本はパッケージ化されたマニュアル化された一見綺麗で清潔な社会だ。でもその根本のおかしさに時々発狂しそうになる、便利すぎる社会に押しつぶされそうになる。セバスティアンは森の中にある材料で家を作り、薬草を探す。竹を切って飲む水は本当に美味しそうだった。「俺たちは森を守る。なぜなら森を壊すことは自分自身を壊すことだ」とまっすぐに言う。そう言えない社会はおかしくなっているのではないか。どこまで取り戻せるだろう。取り戻すことを諦めたくないと思った。だからと言ってシュアール族のような生活はできない、だから自分にできる方法で自分と繋がり続けたいんだ。
上映期間中にスクリーンでもう一度観たいと思った作品。
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