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『Being ME』
「あなたの夢は何?」
と聞かれて、即答できないことに気付いた。
私は38年間生きてきて、猛烈に”何か”になりたくて猪突猛進したことがない。
小学生の頃、書道の時間に「努力」と書く機会が多かった。
私は、今でもこの2文字が好きになれない。
なんというか読むだけで苦しい方向へまっしぐらで、ただひたすら堪え忍んでいる、そんなイメージが湧いてくるからだ。
”何か1つの目標に向かってコツコツと努力すること”が、もしかしたら私の人生ではカリキュラムに設定されていないのかも知れないと思うほど、至極苦手な言葉である。
しかし、そんな私がただ唯一ひとつだけ、人生でずっと飽きずに継続していることがある。
それは、『感動する』ことだ。
感動とは文字通り、「感情が動く様を顕す」と認識している。
以前、デヴィ夫人がメディアで
「私は、1日に少なくとも10回は感動します。」
と仰っていた。
この言葉に、私はとても感銘を受けた。
それまで無意識で過ごしていたが、私も実は昔からずっと感動し続けていることに気がついた瞬間だったのだ。
私は、自分の「運命力」を強く信じている。
それを体現する形となったのが、ニュージーランドへのワーホリ。
英語が全く話せない状態ではじめの一週間の宿だけ予約し、ノープランで始まった私のワーホリライフ。
たまたま出会ったイタリア人と遠距離恋愛が始まったり、たまたま仲良くなった韓国人が宿オーナー甥っ子くんで住み込み生活が始まったり、たまたまルームメイトがロンドン出身で英語を教えてくれることになったり。
オーストラリアで再会直後に大喧嘩からの別れ、東南アジアをひとり旅中に復縁し一緒にイタリアへ行き、一緒に日本へ帰ってきた(結局お別れすることに)。
老若男女世界中の人たちと出会い、まるで一つの家族のようなメンバーに恵まれた。
あの一年間は、今でも思わず目を細めながら思い出す愛おしい私の宝物だ。
その後、言語交換で出会ったギリシャ人とお付き合い開始。
あれよあれよという間にパートナーシップを締結しギリシャへ移住、彼が大チャンスを掴み転職し、思いがけず一緒にイギリスへ移住し今に至る。
特に海外に強いご縁が結ばれた直近の数年間は、まさに「感動」の連続だった。
毎日のように笑い、怒り、泣き、楽しんだ。
私はどこにいても、何をしていても、どんなときも、「喜怒哀楽」と共に生きてきたと胸を張って言える。
”意識”はコントロールできるが、”感動”は抑制することが一切できない。
感動は、魂からこみ上げるものだと感じている。
今はこうやって明るく人生を楽しむことに真っ直ぐに生きている私だが、10代の頃は鬱、自殺願望、自傷行為を繰り返し、「20歳で私はこの世を去る」と本気で思っていた。
この体験以降、命があることが当たり前ではなくなった。
あの瞬間の私の選択によっては、もうこの世にいなかったかも知れないと本気で思っている。
『生きていること』
それがなにより素晴らしいことだと、心の底から100%の気持ちで思えるようになった。
今現在Instagramの毎日投稿をしているところだが、私にとってインスタは、私の日々の感動を詰め込んだ唯一無二の宝箱だ。
SNSが普及した今、思い出を独り占めするのではなく、誰かと共有することができるなんてとてもしあわせな時代に生かされているなと思う。
生き物のようなタイミングで目に入ってくるそれぞれの人の「小宇宙」のような投稿が、時に誰かの心を動かすこともある。
私がまさに、動かされることがあるように。
私が私として何かを発信することで、誰かがちょっとだけ元気になってくれたり笑顔になってくれたり、これほど嬉しいことはない。
そういう世界に生きたくて、今日も私はシェアをしている。
インスタでは「心」の、noteでは「魂」の声を綴っている。
『Being ME』
これが、私の人生をかけてかなえたい夢だ。
自分に決して嘘をつかず、正直に。
風通しよく、ありのままの自分で。
与えられたこの命に感謝し続け、感動し続け、この一度しかない人生を謳歌すること。
私で在り続けること。
それが、私の夢。
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