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区別か差別か
茶道を一緒に習っているお友達、山本さん。
92歳だけどめちゃくちゃパワフルで笑顔がかわいくて
大好きなお友達の一人💕
そんな山本さんのお話し会に行ってきた。
部落差別のリアルなお話に、
心がぎゅーっとなったり
憤ってみたり
山本さんの大きな愛に心があったかくなったり。
この話をきくまでは
私の産まれ育った土地では
「部落差別」という言葉をきいたことがなくて
全然知らなかったし
正直なところ 遠くのできごとだと思っていた。
ただ、
きけばきくほど、
私の心にも差別のたまごはいるなぁと思ったの。
例えば、
私は本当に気まぐれ屋さんで
それをある意味誇りに思っている。
時間や期限にキチンとできたり
コツコツ続けられる人のことも素敵だと思っているけど
気まぐれさんか、キチンとさんか分けて考えがちになる。
これはまだ、区別だと思うんだけど、
時々「気まぐれのほうが 生きやすいのに」なんて思う自分もでてくる。
気まぐれがいいか、キチンとがいいかなんて
その時々の状況やものによって変わるけど
何年も自分を卑下してきた反動がまだ残っていて
自分に都合のいい解釈に振りきりすぎるときに
「自分の属性のほうが優れている」
と思ってしまう。
こうなると 限りなく差別に近づいてるなぁと思う。
金子みすゞの詩の
「みんなちがって、みんないい」
っていうのが 大好きなのだけれど
実際、いつでもその感覚でいられるかというと
なかなか難しい時もある。
差別からの解放というのは
差別されている人を救うだけでなし
差別をしている人たちのことも解放することなのです。
山本さんの言葉がささる。
差別はよくない、
差別をしてはいけない、
そんなことを言ったってなんの解決にもならない。
私を含め多くの人の心に差別の素みたいなものがあって
それが自分に自信がもてなかったり
余裕がなかったり
愛が足りない時に
にょきにょき育って差別が生まれてくる
差別がそんなイメージになった。
自分事として考えること
深く本質を見つめることで
差別の素が私の中で小さくなっていくような気がした。
他人を大切にすることは
自分を大切にすることだとも語っておられたけど、
自分を大切にするって奥が深いわ。