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夫婦生活は「ささやかな推し活」
夫婦の間でどうしても許せない、受け入れられない問題があるとき。
考えないようにしたくても、頭から離れない。これを人は「執着」と呼ぶらしい。
仏教では、執着は慈悲の対極にある。慈悲が「相手の苦しみを減らすこと」であるのに対し、執着は相手も自分も苦しめる。
でも相手に対する気持ちが愛情なのか執着なのかを知るのはとても難しい。「彼のことが頭から離れない」とは恋愛のお決まりフレーズだし、慈悲の心はパートナー以外の人にも持つことできるから一概に愛情とも言い切れない。愛情と執着は表裏一体なのかもしれない。
その気持ちが純粋な愛情なのか、ただ執着しているだけなのか迷ったら、ぜひこのワークを試してほしい。今日カウンターのおひとり席でランチを食べながら発見しやってみたら、腑に落ちすぎて、思わず涙をこぼしてしまった素敵なワークだ。
https://nemotohiroyuki.jp/manwoman-psychology/11239
「ただ好き」という気持ちは、軽やかだ。
ふわりとちいさな羽が生えたことに嬉しくなるような
ささやかで、でもたしかな、よろこび。
それが愛してるに変わり、指輪にかわり、
いつの間にか鎖になって
朽ちてしまう前に、もう1度思い出してみる。
あなたはかつて、1人のファンだった。
熱狂的なファンでなくても、相手の中に純粋に好きと思えるところがあり、その部分については、ファンだったはずだ。
この人のここが好き、いいなと思うそのちいさな
あたたかい気持ち。
「〜してほしい」 「〜してくれない」という世界とは無縁の、「この人のここが好きで、楽しくて、応援したいからする」という身勝手な好き。
彼の彼女の、その「推しパート」には魅力を感じないか?
ちょっと考えてみる。
もし感じないなら、あなたの好きはもしかしたら執着なのかもしれない。
でも、そうでないなら。
あなたはまだ、その人のファンなのかもしれない。
ここからは余談。私の話だ。
別居していたとき、1度別れたことがある。
ビザの関係ですぐ離婚することはできないが
離婚をすることにはお互い同意していた。
ただの友だちになろうなんて、あんなに色々あったあとでそんなことできるはずないのに、と思いつつ、なろうとした。
そうしたらすごく不思議なことに
私たちは仲良くなった。
正確にいうと、私が彼をまた応援したくなったのだ。
誰かを応援するためには
適切な距離が必要なのだと思う。
先ほど紹介したワークにも「あなたの方から1歩距離をとりましょう」と書いてある。何かをいいなと思い大切にするにはエネルギーがいるから、近すぎて消耗したら少し離れてみるのがいいかもしれない。
それに、大体この手の問題では、問題そのもの以上にその問題に囚われて動けない自分に悔しさを感じ、自分自身を責めているケースが多い。
相手を全く推せない自分、そんな推せない相手といる今の自分を許すこと。そのうえで、かつて推していた部分をまた推したいと思えるどうか考えればいい。
「部分」というのがまた大事なキーワードだ。
他人のすべてを知って、全部に共感・賛同できることは稀だから。
「全部を応援できなくてもいい」という前提と、
「ここはやっぱり好きだから推してこ」という軽さ。
ささやかな推し活みたいな夫婦生活。
肩の力を抜いて、推せるところだけ推していこうと思う。