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2択で悩んだときは「どっちでもいいし、どうでもいい」が最強。
人生は選択肢の連続だが、その多くは2択形式でやってくる。転職するかしないか、離婚するかしないか、子供を産むか産まないか。目の前にあるケーキを食べるか我慢するか。風呂入るか寝るか、レベルまでいろいろ。
過去に別居をして10円ハゲが3つできた時、離婚か継続かの2択で迷いながら頭の中を死ぬほどぐるぐる駆け巡っていたのは「どっちがより幸せになれる選択肢か」というテーマだった。
たぶん1000回くらいはどっちの選択肢に対してもシュミレーションをした。メリットとデメリットを紙に書き出したり、目を閉じて各選択肢を選んだあとの自分を想像したり、人にいきさつを話して客観的な意見をもらおうと試みたり、逆にお風呂の中で自分の心に話しかけるみたいな、超主観的な方法も取ってみたりした。
でもその比較検討の時間は、ものすごく苦しかった。誰も行先を教えてくれない中で、ひとり出口のない暗闇を彷徨っていた。髪の毛が抜けたのは、きっと毛根に行きわたるべき栄養ですら、この比較検討に使ってしまっていたからだと思う。そのくらい私は私を苦しめた。
今になって当時の自分に堂々と言えるのは、「どっちでもいいし、どうでもいいんだよ」ということ。この「どっちでもいいし、どうでもいいマインド」は、言い換えると「自分を幸せにするのは自分の捉え方であり、選択肢ではない」ということ。一旦その負のループから離れることができる最強の薬だと思っている。
人生はプラマイゼロ。何も全く失わず得るだけの暮らしをする人はいないし、失うだけで何も得ない人はいないはず。得ることと失うことが表裏一体なら、最終的な全体の幸福度数はどの選択肢をとっても変わらないのではないだろうか。
わかりやすい例として、私の母について書いてみる。母は父と離婚し、その後再婚している。再婚相手は父とは正反対で、少し頑固だが母の行きたいところや食べたいもの、観たい景色を大事にしてくれる人だ。今の方が幸せそうだし、一見この再婚は成功しているように見える。
でも、母はこの再婚と引き換えに実家と絶縁状態になった。そのせいで大変に精神を病んでいる。やっぱりプラマイゼロだ。以前は父のことで、今は実家のことで悩んでいる。
「どっちでもいい」と同じくらい、「どうでもいい」が重要である理由もこの話につまっている。
母が悩んでいたのは、実は父のことでも実家のことでもなく、それらが頭から離れず毎日反芻思考を繰り返して消耗している自分自身なのだ。執着が強すぎるという問題。対象が変わっただけで、悩み続けるのは同じだ。
だから当時の私は、まずこの離婚するかしないか問題を、どうでもいいものとして一旦流れに任せることにした。全身の神経やエネルギーを向けるには値しないものと。そのあと少し時間が経ってから、「どっちでもうまくいくとしたら、どっちがいいか」を想像してみた。暗闇で彷徨い疲れて最後の最後、この考えにたどり着いた。
その時浮かんだのは、継続する未来。はっきりとした1つの選択肢だった。
これで私の比較検討は終わった。
この選択を後悔しているかといわれたら、後悔はしていないと答えると思う。失ったものはあるし、イージーモードではないと思う。でもたぶん、離婚していても失うものはあったと思うし、イージーモードではなかったと思う。結局、私を幸せにするのは私の捉え方であり、一緒にいる誰かではない。
「どっちのほうがより幸せになれるか」という問いの答えは存在せず、「どっちをとっても幸せになれるかどうかは自分の捉え方次第」が真理だと思う。