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わかりたガールと胸の針
「ねえ、なんで病院通ったりしてるしこっちには来ないのに、ライブの予定なんて入れてるの?」
うーんまたか、と思った。
こういうことは、まあ、ままある。ディレクター経験もないのにプロデューサー、みたいな言葉がぽいぽい飛んでくるのには、若干慣れた。慣れたからといって、何も感じないわけはなく。
「ええと、それ聞く?」
ああ、そこ同意なんだ。
別に勝手でしょ、で終わればすぐ済む話なのだが、その場で終わって陰で燻るのは何とも厳しい。
「ちょっと前に白血病疑い、その前には2回ほど難病疑いかかってたでしょ?疑い晴れたけど。で、がん治療終わって今度はまた別に腫瘍があるとかで、もしかして治療に入るかもっていう話だったのよ。5年生存率よろしくないやつで。」
目はまんまる。そうよね。そんなに立て続けに重めの検査なんて普通こないよね。
「もしそうなら年単位でつらくなるし制限もあるだろうから、今のうちにって無理やり予定入れてたの。結果的に治療予定が当初とは色々違ったみたいなのだけれど、まあその名残がJust nowってわけです。」
「じゃあ、何で言わなかったの?」
未確定なことで騒ぎ立てるつもりも、心配をかけるつもりもなかったからだ。わたしは流石にうなだれた。
他人の行動には何らかの理由があり、バックグラウンドをすべて知ることはできない。
・・・・・・というのは至極当たり前のことなのに、何故か人はそれを忘れる。
かなしいかな、忘れ去ってしまう。語る側も聞く側も、結局のところ胸にチクリと針が刺さる。
知らなくてもよかった時間は終わり、夏休み明けのように面倒くさい現実がやってくるのだ。
現実でもSNSでも、揉め事は大概そんなものだろうと思う。インターネット上は直接相手が見えないぶん、余計にそうした傾向がありそうな気がする。
数年前のこと、映画か何かの話をしている最中だったと思う。
「わたし、死ネタがダメなんすよね。」
と後輩が言った。
死ネタ?死がネタとはこはいかに、と思って聞いたところ、物語を創作する人の界隈では『登場人物が死ぬ、または死んでいる』話のことをそう呼ぶらしい。
彼女は早くに家族を亡くしているから、物語の上での死にも敏感なのだという。その在り方、書かれ方にも反応してしまう。
なるほど、と思った。
そのままその記憶はすっかり薄らいでいき、でも会うときには配慮などしつつ、などという日々が過ぎた。そしてとある曲を聴いた時、記憶がバーンと戻ってきたのだ。
歌詞に、病気の用語が比喩として含まれていた。ちょうどわたしは、その病気で立て続けに知人や身内を亡くしたあと。それ以前にも何人も・・・・・・。
しばらくの間、その曲は聴けなかった。そこに優れた押韻やリズムがあるのはわかっていても、それが作者にとって必要なのだと理解していてもなお。
実感が伴ったのは、この瞬間だ。
時間が経った今は、若干の複雑な気持ちはありつつ聴いている。おそらく比喩は一般的なイメージで、現実の多彩さと少し乖離しているので、あらぬ誤解を生まないようにと願いながら。
何かを避けたり責めたりする人の向こう側にある、理解の範囲外の事情。何かを責める人の心に刺さった針と、何かを説明しなくてはならない人の心に刺さった針と。
ならば、出来る限り自分からは針を放たないようにいたい。刺さった針をむしっては投げてくる人の中にあるだろう痛み、過剰反応してしまう原因そのものを、まったくなかったことにもしたくない。こと何かを他者にすすめる時には、それがしっくりフィットするかどうかをよく考えていたい。
対立は容易い。そうならないように、切っ先を削って丸めていたい。少しの工夫で回避できるなら、その労力は惜しまない。
誰かに言われてからするのではなく、つまり他者の成功体験にするのでもなく、言葉を狩るのではなくただ粛々と選ぶ。うっかり刺してしまったり、貫いたりなどしませんようにと。
写真は今日食した巨峰。葡萄の花言葉は、忘却。
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