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自らを語らずに何を語るか

 わたしはTwitter(現X、以後Twitter)が好きだ。だがTwitterの没落など、正直とっくのとうにはじまっていたと思う。マスク氏による買収以前の話だ。
 わたしはTwitterには13年、SNSということならばもっと長くいる。そうした場が荒れはじめるのは、荒らしだけではなく○○警察の隆盛にもかかっている。これも広義の荒らしで、所謂自治厨と呼ばれるものだ。

 Twitterは元々、それぞれめいめいに呟く場だった。それがほかてら・ほかえりといった独特のワードでの交流や、ハッシュタグやQTおよびRTの登場でコミュニケーションツールとして成長していった。
 すると、元々はめいめいが呟いていた言葉に突撃する向きが増えてきた。
 この時点で、一度古き良きTwitterは死んだのだと思っている。殺伐としはじめたのは、この数ヶ月などという短いスパンではない。
 勿論、有益かつ冷静な指摘もそこにはあった。今で言うところのコミュニティーノート的な、各界識者・専門家による訂正補足の類はたくさん目にした。炎上するような激しいやり取りが論旨を霞ませてしまう問題もあったが、所詮人と人なのでかような摩擦はどうしても起きてしまうものだろう。

 より問題なのは、一個人の心情吐露といったものまでを「自分語り」と揶揄する向きが出てきたことではないか。
 そもそも言葉なんていうものはおしなべて借り物だ。全くオリジナルの言葉では、ろくに意志疎通も図れない。借り物の言葉に自意識が宿ってこそ確かな意味を持つ。
 Twitterに溢れていた豊かなナラティブは、もはや嘲笑の対象になってしまった。「自分語りですみません」という、まったく本末転倒の言葉が飛び交うようになった。では、有り体の一般論や使い古しの金言名言でも並べて、借り物の言葉にこれまた借り物の内容を無味無臭なフォントで語るのか。いったいそこに何の意味があるのだろう。

 恐ろしいことに、闘病者界隈への嘲笑まで起きる始末だ。そんな輩はそうそういないだろうと踏んでいたが、音楽という趣味の場において身をもってそれを体感してしまったので、残念ながらそうでもなさそうだ。

 Twitterの闘病アカウントや闘病ブログの多くは、別にヨシヨシしてほしくて書いているわけでも忖度されることを期待しているわけでもない。同じような闘病者とつながることで、不安や情報を共有している。治療内容は個々人によって差があるが、治療にまつわる現実についても詳しい。また、治療の先を行く人たちがその日常の中に楽しみや喜びを見いだしていることは、ささやかな支えや推進力にもなりうるのだ。
 大抵の場合、闘病関連のアカウントはプロフィールにその旨を明記している。だが、読み手側が勝手に読んでいるにもかかわらず、「自分語り」や「キャラ付け」という悪意の解釈でずかずかと突っ込んでくるような向きもいるのだ。思想警察気取りかな。
 嘆かわしいことだと思う。実生活では率直に語りにくい内容だからこそ、零せる場が必要になるものを。

 互いにナラティブを読ませてもらっているのだという感覚を忘れ、個々の適切な距離感も間合いも失ってしまったTwitterが殺伐とするのは至極当然の話だ。
 殺伐とした場所からは、ユーザーは逃げ出す。これはプラットフォームのみならず、エンターテインメントの場でも同じこと。結果として斜に構えた野次馬根性と要らぬお節介と私刑ばかりが残るならば、ユーザーの高齢化も衰退もやむなしといったところだろう。

 meta社の類似サービスThreadsにも、いよいよワード検索とハッシュタグが導入されるようだ。機能の拡張がいつか場を荒ませないといいが──と思ってしまうのは、行き過ぎた考えなのだろうか。
 

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なつめ
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」