プレゼントの向こう側
グッズアパレル声掛け論争のようなものを目にして、少し間をおいて、ランチ休憩に呟きをこぼした。
何を纏うのか。どのように着こなすのか。大袈裟なようだけれど、それは毎日かならず発揮される主体性で、自ら選び取るその日の色彩だと思う。
今日一日、わたしはこれを着ていたいというささやかな意思。たとえやる気がひとかけらも出てこなくて、手に取りやすいものをおもむろに纏ったのだとしても。
ハイブランドを例に出したならば、
「それは自慢だろう」
といった目線が向けられるだろうことも考えに入れていた。
時々ブランド品を贈ってくれる人がいる。
わたしはまったく頓着しないほうなので、はっきり気に入って使っているブランドといえばCOACHくらい、それもグローブレザーの何十年も保つヘビーデューティーさに惹かれてのことだ。リユース品を購入してメンテナンスすることが多い。
彼女は違う。裕福で、とてもお洒落。磨き上げたスキルで道を切り拓き、世界に飛び出したクールで格好いい女性だ。
わたしの頓着しなさ加減を見かねてか、いつもセンスのいいものを選んでくれる。購入したけど使う機会がなさそうで、なんて渡されることもある。
高価なものを贈られるのは、正直気が引ける。トップスやパンツ、バッグ。フィフスアベニューで売られていた琥珀の髪飾り。同じくらいのものをお返しすることが難しい。
しかも彼女ならば、欲しいものはだいたい手に入るだろうし、実際手にしているのだろう。わたしの乏しいセンスで何を選んでも、どうだろう。
でも、率直に嬉しい。まず何より、贈ってくれた気持ちが。
歳は親子ほども離れている。そして彼女には子どもがいない。若くして大きな病気を患い、そういう身体になった。
彼女の代理母になってあげたかった、と母は言った。彼女は子どもが好きだから。彼女のイメージは可哀想の檻の中にはない。病気はその人の歩んだ歴史の一部分で、すべてではない。ただ、母はずっと気にかけてきた。
時々、わたしたちのもとに彼女はやってくる。遠くから、お土産を抱えて。
「あなたが赤ん坊の時から見ているんだもの、まあ、子どもみたいなもんよ。」
彼女らしく、明るく歯切れよく。そんな言葉を聞いたのはずっとずっと前、いつのことだっただろう。
わたしは時々、彼女がくれた服を纏う。いつもは楽だから、仕事がしやすいからという理由で服を選んでいても、そうした日は少し気分が上がる。バッグもそう。わたし自身が見合っているかはわからない、ただ少しだけ背伸びをしたような気持ちになる。
選んでくれた気持ちと一緒に、ドアを開ける。いい日になるように。
グッズであれファストファッションであれハイブランドであれ、その日纏った服はきっと意思だ。自分で買ったのかも、プレゼントされたのかもわからない。たまたま貰ったものかもしれない。それでもなお。
いずれにしても、朝に選んだ気持ちが晴れやかに締めくくられますように、と思う。声を掛けられるならば、どうか嬉しい声掛けでありますように。
あまり高価なものは気が引けるな、と思っているのをそろそろ見透かされたのか、最近は紅茶やお菓子が届けられるようになった。
わたしも最近は、手作りの焼き菓子やこちらでしか買えないものを選んで贈っている。安価かもしれないけれど、なんだかいちばん喜んでもらえているような気がして。