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名前をつけてやる

もう既に名前があるものに、わかりやすくするため別の名前がつけられる。
以前の名前、新しい名前。名前が違うだけで内容は同じなのに、本質を知らぬ人が否定してゆく。

パッシブアグレッシブ(PA)と思われる事例を不機嫌ハラスメント、略して「フキハラ」と名付けなおした記事を読んだ。
被害者であると自認して苦しさを訴えた著者が、PAに対して知識を有しているかどうかは知らない。
だが、「これはハラスメントと同じ構図だ」と気付き行動したのは、大変に勇気が要ることだと思う。
その経験を広めようとしたとき、わかりやすく「フキハラ」と名付けたとして、別にさほどおかしくはないだろう。

おかしいのはむしろ、苦しさを訴えて改善を試みた他者を、「なんでもハラスメントにするのか」と叩く姿勢だと思う。
痛みに痛みを重ねさせることを望むのは、ハラスメントの存在を容認してほしいという気持ちが、心の奥底にあるからではないか。そうして自己責任論の檻に閉じ込めては、見ない振りをして鍵をかける。

SNSに多く書き込まれていたように、ハラスメントと呼ばれるものが増える、または細分化が進むと、本当に生きづらさは増すだろうか?
他人の生きづらさが減るということは、同じ経験をしなくてすむ社会へアップデートされることでもある。容認し続けていては、何も前には進まない。

ハラスメントというと被害者ばかりがクローズアップされがちだが、加害者に加害意識がない場合もある。
被害者にケアが必要であるように、加害者もまた自らの加害性に気付くためのプロセスが必要だ。
さもなければ、被害者となる人間が次々と変わりながら時間が過ぎてゆくだけだ。それは誰のためにもならない。

何でも否定から入ってしまえば、必要な視点もなくなってしまう。
つらい人のつらさを、まずは受け止めること。その原因を真っ直ぐ見つめること。
一旦肯定し、学び、フィードバックすることから生まれる新たな気付き。その中にやさしさ、生きやすさへの鍵がきっとある。
 
 

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なつめ
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」