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キャンサーギフト、じゃない。
ギフトって、大事な人から欲しいもの。
まったく知らない人やいけすかない人からいただいても、ちょっと困惑してしまう。
キャンサーギフト
この言葉、よく聞きます。
サバイバーが自分で発して、例えば心の支えにするとか、そういうことはある。教訓として受け取る、受容のとっかかりにする、あるいは「これを糧にすることで無駄にしない」・・・・・・色々あると思います。
だが、ちょっと待って欲しい。
(どこの新聞だよ、というのはさておき)まあ、待って欲しいのよ。
サバイバー以外がサバイバーに言うのは、何故なんだ?
わたしの中で「闘病あるある」になっている、「ちょっといいこと言ってみたかった」に利用されているきらいがあるように思うのです。
それがもし心から元気づけたい、励ましたいと思っての言葉でも、上手く届かないことはあるのです。
がんは病気なので、夏の元気な挨拶とも冬の便りとも関係なくやってきます。先生の抜き打ちテストよりも抜き打ちで、むしろ範囲すら闇鍋。
ギフト配達人どころか、潜入したアサシンですよ。
アサシン相手ですから、こっちだって本気です。やるかやられるか。
お前DCISだろう?と思われるかも知れませんが、術前にはステージは確定しないのががん。浸潤しているかどうかも、リンパ節転移のあるなしも、最初はわからないのです。非切除で経過観察した場合、浸潤癌になる可能性がある。切ったら浸潤していた、というケースも全体の1/4ほどあるとされます。
そんな相手からギフト欲しいか?
もしもがんから学びを得る、何かの気付きになるとしても、そう感じるのは戦った本人だからこそ。そして、混乱期や怒涛の選択を通過してからのお話。
全力で戦っている最中のバトルフィールドには、郵便配達すら来ません。
サバイバーでもない周囲の人に「キャンサーギフトだから」と言われても、まさに戦闘中の当事者にはよい言葉として届かないのです。
必要なのはわかったふりではない。
では何が届くのか。
サバイバー同士で話す機会は何度かありましたが、一番多いのはこれ。
ただ話を聞いて、寄り添ってほしい。
たったそれだけ?と思われるかも知れませんが、実は傾聴こそ求められているもの。そしてもし助けを呼びたい時に、そっとこたえてくれることも。
体験していないがんについて語ってもらうことでも、有名人のがん闘病について話してもらうことでもないのです。
ゆるふわなわたしにとっては、キャンサーギフトではなく
がんを狩って根刮ぎ奪い取る
という意味での収穫はあるかも知れません。
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