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あるあるとないないの間に
わたしの近しい人は、若くしてがんで亡くなった。
希少がんだった。
静かで、穏やかで、堅実でユーモアもあって、神様がいるならば御許に連れて行きたくなる気持ちはわかる。
そういう人だった。
わたしが勝手に文章にしてよいのか戸惑う。
それくらい大切で、いて当然の人だった。
白髪になっても顔を合わせていられると、無邪気に思っていた。
がんになったことで、色々な人が彼に様々なものをすすめた。
サプリメント。占い。祈祷。食事。治療。
よくある話だと思われるかもしれない。
よくある話って、なんだろうね。
彼は「よくある」で括られていいのかな。
よくある話の、よくいる患者。
よくある話の、よくいる家族や知人。
ほんとうに?
たしかに、彼はそれらのうち幾つかを取り入れた。
標準ではない情報にたどり着いてしまったこともあり、早い段階でそういう道を選んだから、そうこうしている間に病状がすすんでしまったと聞いた。
標準治療にかえり、先進治療も受け、誰がどう見てもつらい現実をたたかい、やがて記憶すら失って去った。
そのあとに残ったのは、「すすめた人たち」の後悔と、静かでつめたい対立。
無知だっただけだ。
みんな、彼を大切に思っていたのは間違いない。
彼を殺そうとしていたわけじゃない。
患者と周囲の人間関係について、家族や友人知人が「対立軸」や「悪」のようなかたちで語られるときがある。
その文脈を「あるあるですよね」と持ち上げる人もいる。
そうだろうか。
単純な構成でその人たちが語られるとするならば、善と悪にでもたとえられるのだろう。
「そんな人間関係なんて切っちゃいましょう」で捨てられるのだろう。
切って捨てて、そのあとに残るものってなんだろう。
すすめた人の中から、がんになった人がいる。
「自業自得だね」と言った人を、わたしは叱りつけてしまった。
自業自得ってなんだ。
誰が断罪してよいのだろう。
自らがすすめたものがガラクタだとわかったとき、大切な人の命を縮めてしまった可能性を知るとき、その深い深い絶望と慟哭に刃を突き立てる権利を、はたして誰が誰から授けられたというのだろう。
わたしはがんになった。
そのとき既に、周りにサバイバーだらけだったから(今もそうだ)、比較的この病気に理解のある人が多い。
それでも、食事が悪いのではないかとか、生活習慣がどうだとか、身内の病気によるストレスだとか、お説教や憐憫の類がいくつも降り注いだ。
おすすめの書籍、おすすめのサプリメント。
その少し前、身内がうつになったときもそうだった。
わたしがそれらに「やめて」「もうしないで」「ひどい」と言うことは、可能だ。
でも、そうしない。
かわりに、丁寧に説明した。主治医の言葉、ガイドラインの存在、エビデンスとは何か、そして検診という素晴らしい仕組みについて。
「やめて」「もうしないで」「ひどい」のかわりに、「実はね」「これは本当に大事な話なのだけれど」「知っておいてほしいのだけれど」と言う。
だって、そうだろう。
ふたりにひとりががんになる時代、目の前にいるその人が深い深い絶望に刃を突き立てられる未来を、どうして防ぎたくないと思うだろうか?
がんだけじゃない。他の病気だってそうだ。
あるあるで済ませて、ざっくり括って、切って捨てたら同じ未来がくる。
それはかなしい。悲しいことだ。
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