Oral history 樊斌(ファンビン)
樊老人は、この界隈ではもっとも“インテリ”といわれている人で、世が世であるならば、とんでもない“良家”の出身だった人です。それはそうでしょう。4歳で婚約していたり、部屋に阿片の壺があったりなんて、いくら60年前とはいえ、フツーの家でないのは確かです。で、彼は占いもやります。
インタビューの数日後に、家にご飯を食べに来てくれと誘われて、郭老師と一緒におじゃましたことがありますが、樊老人は私を占ってくれて、「聡明で、独立心に富み‥‥」と、くすぐったくなるようなことばかりを並べ立てました。
私が樊家山に来たのは、古鎮賓館の隣の部屋に、北京から偶然郭老師がやって来たからであり、彼の友人が樊家山に住んでいたからであり、樊老人にインタビューを申し込んだのも、通りすがりに声をかけただけです。
裕福だった彼の家庭をどん底にまで突き落とした日本兵の子孫に60年ぶりに突然出会った彼は、躊躇することなく「戦争は国家と国家の問題だから、君たち個人に責任はない」といい切り、日本人の私をほめちぎったのです。
そしてその翌日、1時間半ほど山を下りた招賢の町の入り口にたたずむ樊老人を見かけました。息子さんがバイクで迎えに来てくれるのを待っていたのです。どこへ行くのかと聞かれたので、ちょっと買い物にと私は答えました。
後でわかったことは、息子さんはお父さんの指示で、その後再び私を迎えに招賢までやってきて、すべての商店を廻って私を探してくれたそうです。私はそのとき「中国移動通信」の代理店で、なんとかインターネットに接続する方法はないか相談していたのですが、買い物といったので、そこが抜け落ちてしまっていたのです。
樊老人は日が暮れても帰宅しない私を、床につくまでずっと心配してくれていたということを、後日、4歳で婚約をしていたという“愛妻”から聞きました。
樊家山に住むようになってから、私は樊老人の家へはしょっちゅう遊びに行き、そのたびごとに衝撃的な話を聞かせてもらいました。これまでにすでに100人に近い人たちと会ってきましたが、その中でも、私が最も大切に思っている人のひとりです。 (2006-05-13)
樊斌老人(72歳・男)の記憶 樊家山
1942年12月に日本軍が三交にやって来るまで、私の父は晋劇の劇団のオーナーで、役者、演出家でもあった。父が35歳になるその年は一家に驚天動地の激震が走った年で、私は当時8歳だった。
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