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Oral history  劉根香 磧口

*ちょっとミスってしまいました。現在、パソコンの寿命が刻々と近づいているので、せっせと予約投稿をしているのですが、劉根香老人の記事は来年に予約設定してるつもりだったのですが、なぜか今さっき公開されていて、あわてて削除してしまいました。ところがその10分ほどの間にすでに購入してくださった方がいらっしゃったことがわかりましたので、改めて公開します。劉ばあちゃんは、とても話好きの人で、よく遊びに行きましたが、なかなか帰してくれない、根はとても明るい人です。今回は無料配信とさせていただきました。

劉根香リュウゲンシャン老人(84歳・女)の記憶  磧口チーコウ
日本人が来たとき私は16歳で、18歳のときに李家山で日本人に夫が殺された。あのとき村人はみな隠れたけれど、日本人がいなくなったと思って、家に戻ろうとしたとき、日本人が遠いところから村人を見つけて発砲し、数人が殺された。その中に私の夫もいた。私はそのとき別のところに隠れていた。夫は両親も兄弟姉妹もなく、遠い親戚が来て彼を埋葬した。その後私は生活するすべもなく、他の家に嫁いだ。

日本人が来るたびにみんな隠れた。洞窟に隠れていても地面を掘って物を取り出しているのがわかった。それから捉まった人たちの泣き叫ぶ声も聞こえてほんとうに怖かった。午後に日本人が帰っていくと、村人もようやく家に戻ることができた。あの頃の日本人はほんとうに酷くて、何を恐怖といえばいいのか私たちは知っていた。

当時日本人は西湾に住んでいて、毎日陳家垣の山の上に行って、向かいの陝西の丁家畔に大砲を撃っていた。洞窟の中に隠れていても砲声が聞こえ、向かいの山に砂塵がもうもうと立ち上るのが見えた。恐ろしくて誰も外に出ようとはしなかった。

あるとき、陳家垣の方から人が走ってくるのが見えて、日本人が来たことがわかった。李家山の人たちもあわてて隠れた。夜は河原にある穴蔵に隠れて、家には帰らなかった。

李家山の少しいい建物は日本人に明け渡した。日本人がカーキ色の服を着ているのが見えた。背は高くなく、恐かった。彼らが最初に来たときは人を殴らなかったし、子供に会ったりすると氷砂糖をあげたりしていた。しばらくしてから村人を捉まえ、殴り、女性を連れ去って強姦するようになった。私たちはいつも逃げ隠れなければならなくなった。それからは私は実家のある劉家坡に行って暮らした。ほんとうに恐怖だった。

日本人が来ると、日本人の侵犯から村を守るために、いつも接待をする人がいた。接待は十分で、日本人もそんなに悪いことはしなかった。彼らの食糧として牛まで提供した。あるとき八路軍が来てその男を捉まえようとしたが、ちょうどそのときは家にいなくて逃げ去った。

日本人が私の村に来たのは1度や2度ではなかった。彼らの行動はとても速く、砲撃の音が聞こえてすぐに逃げる準備をしていると、彼らはすでに村に入ってきた。村では数人が殺された。日本人はいろんなところに出かけていったが、いつもカーキ色の服を着ていた。

私の実家の劉家坡にも日本人は来たことがある。投降して帰るときにも通った。午後に通り始めて、月が登りはじめる頃まで続いた。たくさんの軍隊が通った。彼らはスキを見て村の鶏や棗を奪ったが、家の中に入って略奪はしなかった。投降して帰るとき、劉家坡は何回か通った。

あるとき、私たちが地下の穴蔵に隠れていたとき、日本人が連れて来たひとりの金皮隊の人間が、鉄の棒で私の母を殴って、村人がどこに隠れているかいえといった。母は私たちが見つかるのを恐れて一言もしゃべらなかった。その金皮隊が今度は私の2番目の叔母を殴ったとき、彼女は恐ろしくて私たちが隠れているところを教えた。そして私たちは見つかってしまった。ふたりの既婚女性とひとりの若い女性を連れ去った。

2日目に2人は帰ってきたが、未婚女性の方は金皮隊の男と一緒に西湾に行って結婚した。3日後実家に帰る(*結婚後3日目に女性の実家に行く習慣がある)とき、小さなロバを曳いてまた劉家坡にやって来て、村人に隠れなくてもいい、日本人は来ないといった。

彼らが食事をして帰るとき、焉頭村を通った。その村の民兵が手榴弾で彼らを攻撃した。男は逃げ女は捉まった。ロバも捉まった。その後彼女を連れて陝西に行った。日本人が投降していなくなってから、ようやく戻ってきて。彼女の実家に連れて行って解放した。

あるとき洞窟に隠れていて向かいの山から日本人がやって来るのが見えた。怖くて動くこともできなかった。見つかって洞窟の中に発砲されるのが怖かった。当時お金があった家ではみな陝西の方に逃げた。日本人は船を持っていなかったので、黄河を渡ることはできなかった。

劉家坡は小さな村だったけれど、日本人は何度もやって来た。物を略奪するだけで、人殺しはしなかった。あの年、私が実家に行ったとき、陳家垣の山頂に行った。たくさんの日本軍が馮家会の河原で休憩しているのが見えた。みんなカーキ色の服を着ていた。あれは撤退のときの光景で、それ以降やって来ることはなかった。

最初に来たときは略奪はなかった。後になって、村にやってくるとかたっぱしから物を奪って、何もかもメチャメチャにした。洞窟の中にいても捉まえた人を殴る怒声と叫び声が聞こえ、どこに物や銀貨があるのか、どこに隠れているのか言わせているのがわかった。

私は馮家溝に数日住んだこともあった。当時再婚した夫はそこで糸を紡ぐ仕事に就いていた。私は白嶺則村という村に十数日隠れたこともあった。そこに親戚がいた。その後日本人がいなくなってから家に帰った。山の上の村に行けばすぐに火を点けたが、毎日ではなかった。広い道のそばが多かった。李家山にはしょっちゅう行って泊まった。あるとき、春節に日本人がやって来るという情報が入った。やっぱり隠れなければならなかった。でなければ捉まって殴られた。怖くてしかたがなった。

あの頃西山上にトーチカがあった。日本人は陳家垣の山の上に行って、向かいの丁家畔に大砲を撃った。私たちは洞窟に隠れていても、大砲を撃つのが見えた。ほんとうに怖かった。毎回やってくるととにかく逃げた。李家山が受けた損害は大きかった。

私はよく眠る方で、洞窟の中にいても眠った。他の人は眠れなかった。李家山に来た回数は多い。磧口から近い。磧口では、捉まって黄河に投げ込まれた人もいたと聞いたことがある。その後比較的お金がある人はみな陝西へ逃げ、貧乏人だけが村に残った。

私の夫が殺されたとき、1度に4、5人が殺された。あれは日本人が撤退する時期だったが、遠くから銃で撃たれた。死んでから、死体が犬に食べられないように親戚が近くに穴を掘って埋めた。後になって掘り出して棺に入れ、再び埋葬した。                (2007‐05‐21 採録)

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私は14歳で結婚した。15歳で糸をつむいで布を織った。16歳の時に日本人がやってきて、夫が殺されたときは18歳だった。あのとき私は馮家溝に隠れた。彼は私に行くなといったけれど、私は彼を騙して外に逃げた。村人が彼に明日馮家溝に行って様子を知らせるようにといった。帰ってから彼は急にのぼせが来て結局行かなかった。ちょうどその日、日本人がやって来たとき、彼は外に逃げた。日本人が彼を撃とうとした。ひとりのおばあさんがそれを見ていて、「彼を撃たないで。彼は親戚もないかわいそうな人だから」日本人は銃を下ろした。おばあさんがいなくなると2発の銃声が聞こえた。私の夫が路の上で倒れていた。死んでも家族も親戚もなく誰もめんどうを見なかった。彼はたったひとりだった。彼は私より10歳年上だった。彼の母親は彼ひとりを産んだだけですぐに亡くなった。

彼が撃ち殺されて村の人が穴を掘って彼を埋めた。日本人がいなくなってから私は戻った。近所の人をたのんで彼を埋葬した。以降私は実家で暮らすようになった。私が18歳のとき彼は死んだ。

日本人が来て数年、恐くて隠れるところすらなかった。日本人はほんとうに恐かった。やって来れば村中が逃げた。とても残酷だった。その後私はまた新しい夫を捜した。彼もそんなにいい人ではなく、一日中牌を握っていた。いったい私がどんな罪をおかしたというのだろう。日本人は数年間侵犯して、7、8年たってからいなくなった。

李家山にはたくさんの日本人が来た。一番最初に来たときは乱暴したりはせず、子供に氷砂糖をあげていた。その後酷くなって、女性を捉まえるようになり、女性たちはびっくりして、畑、山の上、河原、洞窟に逃げた。ほんとうにたいへんだった。死んでもきちんと埋葬してもらえず、食事もできなかった。李家山では村人は仕方なく一頭の牛を殺して彼らを接待したくらいだ。

私の実家は劉家焉で、日本人は2回来た。最初に来たときはちょうど雪が降っていた。びっくりして逃げるとき、私はあわてて畔から転がり落ちた。数日間休息してようやく起きられるようになった。

日本人は本当に恐怖だった。村人を捉まえて、娘はどこか、嫁はどこかと聞いた。あのとき彼らはむやみに略奪した。私の実家でひとりの女性が金皮隊の男に連れて行かれた。2日目にふたりはロバに乗ってやってきて、村人に隠れなくていいといった。村人は彼らに食事を作って与えた。帰りに、彼らが焉頭村を通ったとき、民兵が手榴弾で攻撃した。一発の手榴弾が彼女の足の裏を貫通した。彼女はびっくりして地面に座り込み、彼らに捉まった。保平のおばさんが日本人に連れて行かれ、その後は陝西に隠れた。日本人が彼女の実家にお金を送ったといっている人がいた。

私はあのころお金がなかった。それでも棺おけを掛けで購入して夫を埋葬した。その後糸を紡ぎ布を織って金を稼ぎ返済した。ずっと実家にいた。古い社会の生活はほんとうに大変だった。

日本人が出て行くとき私の実家の前を通った。ものすごくたくさんいた。日本人は背が低かった。一度など、ずっと行軍して、夜になって月が出る頃ようやくいなくなった。彼らはカーキ色のコートを着ていた。そのときは何もされなかった。

李家山ではあるとき4、5人が殺された。みな銃で撃たれて死んだ。あのとき私は馮家溝に隠れていた。夫が撃たれて死んだと聞いて3、4日たってからようやく日本人はいなくなった。彼らはしょっちゅうやって来た。ときには昼間にやってきて、夜磧口に降りていった。西湾にも駐屯していた。西山上のトーチカにも住んでいた。李家山にいたときも、比較的いい家に彼らは住んだ。例えば2階は彼らに明け渡した。私たちは崖の中腹の洞窟から、カーキ色の服を着たたくさん日本人を見た。

あの頃私は実家にいた。日本人はたくさんの女性を捉まえて西湾村で「裸体会」を開いた。それはほんとうに酷いものだった。あのとき私の子供のおじいさんが日本人に捉まってもう少しで死ぬところだった。日本人は彼の口に唐辛子水を流し込んで、腹の上を踏みつけ吐き出させた。ほんとうにかわいそうだった。

私は結婚してからは2階に住んでいた。銃弾が頭の上をびゅんびゅんと音を立てて飛んでいった。日本人が陳家垣の山の上から陝西の丁家畔を攻撃していた。私は銃弾が通過してから砂煙が舞い上がるのを見た。その後村人は恐がって夜は自分の家にいるのも嫌がった。

あの頃は子供をさかさまに抱いて逃げて窒息死させたことすらあった。洞窟の中では他の人に泣かせるなといわれて自分の子供の口をふさぎ、窒息死させたこともあった。あのころは、他人の累が及んで日本人に見つかるのを恐れた。まったく酷いこと。

ひとたび砲撃の音を聞こえると日本人はすぐにやって来た。遠くから見ると蜂がわくのに似て、黄色のかたまりだった。賀家湾でたくさんの人が死んだのは、誰でも知っていることだ。

日本人がいなくなってから土地改革だった。私の母の家は人が多く、私の父だけが金を稼ぎ、7、8人を養っていた。私は綿を紡ぎ機を織って売っていた。私は福のない人間だ。何人も夫を替え、ここにやって来たのは33歳だった。その後ようやく白い麺が食べられるようになった。若い頃は食べることすらできず、いつも泣いていて、あの頃は涙で目がつぶれそうだった。   
(2008‐05‐21 採録)

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