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Oral history  凍てつく風景の中で

ゆうべから、まるで細断された絹糸のような雪が降り続き、今朝は3cmほどの積雪になりました。春節が過ぎてから雪が降ることは滅多にないそうですが、正真正銘のパウダースノーで、足を踏み出すごとに、パッ!と粉雪が舞い上がります。

そんな中、私の部屋の前をグオッグオッグオッ‥‥と何か巨大な獣の吐息が通り過ぎたので、何だろうと扉を開けてみると、丸々と肥った黒豚が一頭逃げ出したようで、顔見知りの肉屋のおっちゃんが追いかけてきました。先端に鉤の付いた長い棒で口の中をひっかけ、もうひとりが足をロープで縛って引きずろうとするのですが、死期を悟ったトン君の必死の抵抗にあい、なかなかうまくいきません。そこに大きな黒犬と小さな白犬がやってきて、白一色の雪原の上でブヒーッブヒーッ!ワンワン!キャンキャン!ブヒーッブヒーッ!‥‥と、それはそれは凄まじい戦闘が繰り広げられたのですが、数分後には加勢に来たおじさんたちに取り囲まれて、やむなく曳かれて行きました。

その後もひとしきりブヒーッブヒーッ!は続いたのですが、やがて静かになり、私はその後どうなったか気になって見に行ってみました。古鎮賓館から2軒おいた向こう側にちょっとした空き地があって、そこが屠殺場になっているのです。

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行ってみたら哀れトン君はすでに大きな甕の中で茹で上げられ、おっちゃんたちに毛をこそげ取られているところでした。ほんの数十分前まで果敢に抵抗を試みていた大きな生き物が、ゴロリと一個の物体となって横たわっているのを見るのは、何ともはかないというか、やっぱり人間が一番恐ろしいと
いうか、世界の非情を見た思いがしました。

やがて、頭がブッツリと切り落とされ、4本の足が切り取られ、大きな鉤2本に後ろ足を引っ掛けられて、ドッコイショッ!と木で組んだ櫓に吊るされるのです。このときにドバーッ!と大量の血が開口部から流れ出し、あたり一面を赤黒く染めました。そして大きなサンドバッグのようになった肉の塊は、吊るされたまま鋭利な刃物で手際よく解体されていくのです。

何とも凄惨な光景ですが、もちろん肉屋のおっちゃんたちにはこれが日常。これからも3日~5日に1回、このブヒーッ!ブヒーッ!は私の耳に届くでしょうし、私はこのおっちゃんたちとは毎日顔を合わせてあいさつをする仲なのです。この豚は重さ110kg、1kg5.5元で卸されていくそうです。

吊るされた白い肉の塊に、ピョコンと尻尾だけがおまけみたいに付いていたので、「尻尾も食べるの?」と聞いてみると、「これはすごくうまいし、栄養がある。ひとつ食べると1歳長生きできるんだ」と教えてくれました。そして、ちょうどやってきた老人に生え際からプツンと切り取って「彼は今80歳だから、これで81まで生きられる」といいながら手渡しました。老人もちょっと微笑んだようでした。老人は次には小腸を渡されるとそれを洗面器の中で洗って中身を搾り出し、同じようにビニールの袋にしまいました。もちろんタダであげたのだと思いますが、そのせいかどうか、それから石の台の上にかがみ込んで、豚の腹から出てくる内臓をひとつひとつ区分けしていく手伝いをし始めたのです。

やがて彼は低い声で歌い始めました。最初は何だかわからなかったのですが、しばらく聞いているうちにところどころ聞き取れる単語でそれがどういう歌か理解できました。磧口の人なら子供でも知っている『日軍侵略磧口鎮』という俗謡だったのです。

私は血の臭いにちょっと気分が悪くなって戻ろうとしていたきびすを返しました。彼は路上ですれ違っても私と視線を合わせようとはせず、日本人を忌避するようなかまえ方で、前々から気になっていた老人だったのです。

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降りやまぬ細雪の中、まだ湯気の出ている豚の内臓を腑分けしながら、老人はいつまでもいつまでも呟くような声で歌い続けました。身も心も凍てつく風景の中で、行き場を失った私の足もまた、血溜まりに紅く染まっていくようでした。                                                                             (2006-02-28)

高縄大老人(82歳・男)の記憶  磧口                   私が13歳のとき日本人は磧口にやってきた。民国28年正月28日に磧口にやって来た。最初に西頭村で十数人が殺された。ほんとうに残酷だった。数人を捉まえて縄で一列に繋ぎ、サーベルで脅迫して凍った黄河の上を歩かせた。黄字峪のひとりは胸を開いて内臓を抉られ、心臓をつかみ出された。

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