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革命烈士証明書

革命烈士証明書
古鎮賓館で2日続けて私の帰りを待っていた人がいました。張タンライという人で今年72歳。日本人の私に聞いて欲しい話があるというのです。

彼の父親は1939年に抗日戦争に参軍して、40年に戦死したそうです。そのとき母親はすでに亡く、一緒に暮らしていた祖母も息子の死を知って悲嘆にくれてじきに亡くなり、以降たったひとりで暮らしたそうです。

15歳になって磧口で船着場の荷揚げの仕事をしていたときに、偶然親方が彼の父親のことを知っていて、汾陽という町の三道川というところで死んだことがわかったそうですが、どこに埋葬されたかはわかりませんでした。

彼がいうには、中国には「合葬」の風習があって、夫婦は同じ墓におさめなければならないから、父親の埋葬地をずっと探していたというのです。北京の政府にまで行って陳情したがいまだにわからない、これには日本政府も責任があるから何とかならないだろうかというのです。

彼の口ぶりからは、できることならば日本政府に賠償を請求したいというのが本音だったと思いますが、これに対しては、私はまったくの個人であって、どこからも資金援助を受けていないこと。政府の関係者でも研究者でもないので力がないこと。裁判を起こすには膨大な費用と時間がかかり、現実的には無理であるということをはっきり伝えました。

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かすかな期待を打ち砕かれた彼は落胆したおももちでしたが、胸のポケットから折りたたんだ紙を出して見せてくれました。それは、1983年中華人民共和国民生部発行の『革命烈士証明書』というもので、

「張茂盛同志は抗日戦争の中で壮烈な犠牲となり、ここに革命烈士として承認し、特にこの証書を発行して称揚するものである」と書かれていました。

そして左側に戦死した時期と場所と遺族の名が記され、その下には「撫恤金額」、つまり補償金額が書かれていたのですが、私はそれを見たとたんに言葉を失いました。日本軍と戦って犠牲となったひとりの農民兵士の命の値段は180元、わずか2500円だったのです。         (2005-10-18)

グオミンチャオ老師
古鎮賓館の隣の部屋には湖南省出身の郭ミンチャオという、北京の師範大で美術を教えている30歳くらいの老師が住んでいます。休暇を2ヶ月とっていて、磧口と近隣の村々へ行っては毎日油絵の習作を描いています。

この郭老師というのが、ものすごく気のつく柔和な性格の人で、中国人にもこんな人がいるのか(!?)というくらい他人のためにかいがいしく働くのです。

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最近は宿の老板ラオバンと私と3人でほとんど毎晩酒を飲んでいるのですが、コップを用意したりテーブルを片づけたりするのはいつも郭老師で、老板はお客さんを決め込んでいます。もちろん私は右のものを左に動かすことなく、酒はついでくれるわ、つまみは用意してくれるわ、チリ紙をきちんとたたんでナプキンを差し出してくれるわ、酒がなくなれば買いに走ってくれるわで、こんな人が傍にいたら、まぁなんて楽チンなんでしょうと、つくづくありがたい人なのです。

もちろん特に私にだけということではないのですが、聞いてみると、彼は「日本人が好きだ」というのです。自分の友達が以前、平山郁夫のクラスに留学していたことがあるらしく、いろいろ話を聞いて、「日本人はほんとうに真面目な人たちだ」と思っているのです。

で、私はさっそく「眉唾」と「ゴマすり」という言葉を、その動作と共に教えてあげたのですが、いたく気にいってもらえたようで、日常会話の中に頻繁に登場するようになりました。

とまれ、この先1ヶ月以上も同じ屋根の下で暮らすことになるので、彼の“日本人観”もやがて音たてて崩れてゆくのかもしれませんが、その前にぜひにとお願いをして、明日は西山上の陳じいちゃんの素描を描いてもらうことになっています。                     (2006-03-03)

あなたのために

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今日はとても暖かい一日で、じいちゃんに外に出てもらって、郭老師にスケッチをしてもらいました。去年の秋頃には体調を崩して心配したのですが、なんとか健康を取り戻してくれたみたいです。それにしても、最初に会ったおととしの8月と比べるとずいぶん痩せて、頬がげっそりとこけて精彩がなくなってきたのは如何ともしがたいようです。今年84歳という、平均寿命の短い当地では最高齢に属する年齢なのです。

しかし頭脳の方は非常に明瞭な人で、私のいうことはすべてその場で理解してくれます。目こそ見えないものの、耳はよく聞こえ、私がカメラのシャッターを押すのもわかります。写真を撮るというと、必ず手で髭をまっすぐに整えるのがクセで、やはりちょっとよそゆきの顔をするので、黙ってシャッターを押すと、「また写真撮ってるのかぁ」なんてバレてしまいます。

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1時頃から始めて、途中休憩をはさみながら3時間半ほどで、素描はほぼ仕上がりました。帰ろうとすると「あんたたちのために用意したんだから食べていって」と強く引き止められました。じいちゃんがフイゴで火を送り、ばあちゃんが「ビン」を焼く用意をしていたのです。ビンというのは、要するに小麦粉を水で溶いて薄く焼いたものですが、こちらの貧しい家ではフツーは塩をひとつまみ入れる程度なので、私たちの感覚ではそもそも“うまいもの”の範疇には混ざりようがありません。

「厚いのはダメ、薄いほどおいしいんだよ」といって、ばあちゃんが選んでくれたビンはパラパラと刻んだネギが入り、普段とは違って少し黄色味がかっていました。

電灯もない薄暗いヤオトンの中で、カマドの上に放置された2個の鶏卵の殻が、ひっそりと「あなたのために、あなたのために‥‥」と語りかけてくるようで、私は何だか見てはいけないものを見てしまったように、ウロウロと視線をそらしてしまったのです。     (2006-03-04)

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