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はじめて国境を見た日

私が初めて日本を離れたのは、今から半世紀ほども大昔のことで、行き先はロスアンジェルス。赤いチェック柄の布製の小さなスーツケースひとつ抱えて、「もしかしたらもう日本に帰ることはないかも知れない」と悲痛な想いで羽田を飛び立った日の光景を、今もぼんやり覚えています。

なぜロスだったかというと;

当時私は東京新宿区にあった3畳一間、トイレ共同、風呂は銭湯という‶学生アパート″に住んでいたのですが、筋向いの部屋に田中さんという兄妹が住んでいました。この部屋は唯一6畳あって、その1/3くらいの位置に御簾の如く厚いカーテンが下がっていて、その奥に妹のすがこさんが住んでいました。社会人のすがこさんは色が白くてとてもきれいな人でしたが、大学院生のはるひこさんはまったく似ていない、色黒のどこから見ても‶おっさん″な人で、「あのふたりは絶対に兄妹ではない!」と、みな噂し合ったものでしたが、後に高山の実家におじゃまする機会があって、この噂は否定されました。

その田中さんの部屋に、二村さんというはるひこさんの友達がしょっちゅう遊びに来ていて、私も呼ばれては、その頃は酒を買う金もなく、しらふのままで飽きることなくあーだこーだと語り明かしたものでした。

この二村さんが、実は‶アメリカ帰り″だったのです。当時一般人が耳目にする西欧情報などは眉唾モノが多く、彼の直接体験にもとづくアメリカ話は、アパートに暮らす血気盛んな若者たちを釘づけにして十分な迫力があり、揃って羨望の眼差しで彼の口元をみつめたものでした。

そもそも二村さんがなぜアメリカに行ったのかという話までは、記憶にないのですが、彼はロスでガーデナーをやってお金を貯めて、それで世界を旅して帰ってきたところだったのです。

ガーデナーというのは、Gardener つまり、日本風にいえば庭師で、当時のロスでは、日本人の仕事と相場が決まっていました。彼の地では広大な庭を持つ邸宅が多く、そこには広く芝生が植えてあって、気候的にもじゃんじゃん伸びるので、それを1、2週ごとに刈り込んだり、庭木の管理をするのが仕事で、芝刈り機を所持しているボスのヘルパーとして働いて、1日20ドルのペイが相場でした。当時のレートは1ドルが360円で、つまり日給7,200円という、破格の収入になったのです。その頃私たちが東京でやっていたバイト代は、せいぜい日給1,000円くらい、大卒の初任給が40,000円程度という時代でした。

二村さんの話によると、ロスには‶Little Tokyo″という、日系人が暮らすコミュニティーがあり、そこでは毎週『羅府新報』というタブロイド紙が発行されていて、日本人向けの求人情報が満載されているので、言葉ができなくても仕事はすぐに見つかるというのです。

二村さんの独演会を聞いている誰もが憧れましたが、私は憧れだけでは済まず、決行を目論んだのです。当時テレビで人気だった『ルーシーショウ』という番組の中での、‶シャンデリアがつり下がった広いリビングルームに猫足の家具が並び、訪問者は車でやって来て、毛皮のコートを着ている″というのは、番組の中の絵空事なのか、ほんとうのことなのか、自分の眼で確かめたいという欲求に捉われてしまったからです。

それから1年間、アルバイトで旅費を稼ぎ、ようやく飛行機代が貯まったところで、私は日本を飛び立ちました。当時のアメリカ便はものすごく高額で、しかも片道切符というのは購入できませんでした。正確には覚えていないのですが、20万円をはるかに超えていたと思います。それで、到着してから帰りの分をキャンセルして、それを当面の生活費に充てるということで、若かった私は無謀な見切り発車をしてしまったわけです。

二村さんが紹介してくれた日本人の青年を訪ね、いろいろアドバイスを受けた後、日系人経営の安宿に荷を下ろし、観光などいっさいせず、すぐさま職探しに奔走しました。

しかし、ロスで仕事をするには車がないと不可能であるということがすぐにわかり、まず最初にしたことは、運転免許証を取得することでした。

当時のカリフォルニア州の運転免許取得というのはものすごく簡単で、まずは5ドルを払ってペーパー試験を受けます。縦長の30センチくらいのペーパーに裏表、確か100の問題があり、3択制だったと記憶しています。いわゆる‶構造″というものはなく、ひどく常識的な問題ばかりで、「学校の近くでは〇マイルに徐行する」とか、「横断歩道では一時停止する」とか、誰でもわかるようなものばかりだったのです。しかもこの数種類しかないという用済みの試験用紙は巷に出まわっていて、私も前もってチェック、暗記することができたし、辞書の持ち込みすら可能だったのです。

自分の好きな時間に試験場に行ってペーパーを受け取り、好きな時間をかけて解いて、カウンターに持ち込んで、70%以上が正解だと、その場で‶臨時運転免許証″というものが受け取れるのです。この臨時免許証さえあれば、その後半年間、隣に26歳以上だったかの有免許者が同乗していれば、どこでも自由に運転できました。そして、その半年の間に、自分の車を持って試験場に行って、路上試験を受けてパスすれば、それで正式な運転免許証が受け取れたのです。免許証には顔写真も何もなく、ぺらっとした1枚の紙切れでした。

そういえばひとつ思い出しました。試験場というのは、ちょうど日本の選挙の投票所のような感じで、簡単な衝立がある長い机の上で、立ったまま行います。私がやっていると、隣にいた黒人の青年が、チラチラと私の手元を覗き込んできたのです。私は予習万端で自信があったので、彼がカンニングし易いように見えやすい角度にずらしてあげました。余計なおせっかい、そもそも試験の無力化かもしれませんが、私も同じ穴のムジナでしたから。

で、あとになって納得したのは、アメリカには英語の読み書きができないアメリカ国民が少なくないということでした。多民族国家に暮らすあの黒人青年は、おそらく無事に試験をクリアできたことと思います。

私はまずペーパー試験をクリアして、その後は二村さんの友人のシェボレーを借りて運転の練習をしました。宿のすぐ近くに、広大な墓地があって、道は車が行き違いできる幅が十分にあり、人はほとんど歩いていないし、くねくねと曲がりくねっていて、運転の練習をするのにこれ以上の場所はないというほどにおあつらえ向きだったのです。

私は2週間ほど毎日練習をして、難なく実技試験にパスしました。そしてすぐさま働き口を見つけたのです。

ロスの北東に隣接するパサデナという町にある、AVONという会社の工場の清掃の仕事です。デイビスという小柄な黒人のスーパーバイザーの元に5,6人(アイリッシュとイタリアンがいたことを覚えている)が集まって、工場の仕事が終わった夕方5時に出勤して、午前2時頃までの仕事でした。免許取り立て、他人の車で、深夜のフリーウェイをがんがん飛ばしていたわけです。

一度だけパトカーに停められたことがあったのですが、理由は「子どもが運転していると思った」からでした。カリフォルニアでは16歳から運転免許が取れます。確かにあの頃の私は、アメリカ社会の中では、若いというよりまだ‶子ども子ども″していたかも知れません。

実は私はこのパサデナの工場で、人生最初ともいえる、カルチャーショックを受けたのです。AVONというのはかなり大手の化粧品会社で、工場も立派な建物でした。広大な作業場の機械や机の上には、私たちは手を触れないので、床にバキュームをかけることと、あとは主にトイレの清掃をすることでした。

大きな工場だったし、おそらくは女性従業員が多かったのでしょう、トイレも広くて何か所かにありました。入り口を入ると、化粧室になっていて、四角形ではなく、飾りの付いたオーバル型の大きな‶白雪姫″の鏡がデーンと据え付けてあり、化粧品もズラリと並んでいました。その隣の部屋に個室が並んでいるのですが、びっくりしたことに、化粧室に入ってから個室の床に至るまで、ずっと同じ毛の長い上等なカーペットが敷いてあったのです。

使った掃除道具は、バキュームと厚手のペーパータオルと洗浄液でした。日本ならば、‶便所掃除″というのは、ぞうきんとブラシを使い、水をじゃんじゃん流してやるものでしたが、アメリカでは水を使うことはなかったのです。アメリカって凄いな、とショックを受けました。

もひとつ、これは私の記憶が定かでなくて、どこが最初だったかわからないのですが、あの西洋便器というものを、私はアメリカで初めて見ました。当然のことながら、正しい使い方がわからなかったのです。日本の古典的なトイレは、扉を開けて中に入ると、進行方向に向けて座り込みます。その歳までずっとそうやって用を足してきました。なので私はやっぱり進行方向に向かい、首をひとひねりした後、仕方なく便座の上に乗ったのです。しかし、これはいくらなんでも使いづらい、こんな非合理的な使い方があるのは変だと思いつつ、何回目かにフト、180度クルリと転回してみたのです。そうかっ!そうなんだ!そこまで来てようやく腑に落ちた私は、正しい使い方を自力でマスターすることができたのです。こんなに快適な便器があるなんて、アメリカは凄いと思いました。

メンバーの中にかがわ君という20歳前の日本人がいました。彼はミュージシャンを夢見て、いつかニューヨークに行くんだと熱く語っていましたが、この快適さに目覚めてからは、個室に入ってマスターベーションをするのが唯一の息抜きだといって、時々姿をくらましました。あれから半世紀、一度も連絡を取り合ったことはないのですが、マッシュルームカットが似合ったあの少年は、その後ニューヨークに行ったのだろうか?そして、夢の一端をぎゅっと握りしめてそのままアメリカに残ったのだろうか?

次にした仕事は、くらたさんという日系人が経営するボーディングハウスの住み込みの仕事でした。3畳間くらいの簡素な部屋が50ほど並んでいて、賄い付きで月100ドルだったと記憶しています。ほぼすべてが日本人で、韓国人がひとりふたりいました。みなロスで働いてお金を貯めるのが目的の人たちばかりで、すべて男性だったと記憶しています。

働いていたのは、くらた夫妻とそのお母さん、きいさんというおばあちゃんとのぶこさんという中年女性と私の6人で、朝の5時から食事の用意をし、みなが出かけてから部屋の掃除をして、昼休みの後に夕食の用意、ととても忙しい仕事でしたが、人間模様がおもしろくて、しばらくそこに世話になっていました。

当時はまだ沖縄がアメリカの施政下にあり、ビザの問題が解決できたので、沖縄からの出稼ぎ労働者が半数くらいはいました。彼らの仕事はほとんどがガーデナーで、中には自分で芝刈り機を持ってせっせと稼いでいる人もいました。おしなべて寡黙で、仕事以外に外出することもなくひたすら働いては故郷の家族に仕送りをしていたのです。アルファベットがうまく書けないので、手紙の宛先を書いて欲しいと、時々たのまれもしました。先に書いたように、1ドルが360円の時代でしたから、故郷にもきっといい知らせが送れたことでしょう。

夜になると‶身をひさぐ″数人の女性たちが部屋のドアをノックしてまわり、ふわっと身をすべらせてゆきました。時々は階段に座り込んで彼女らの身の上話など聞かされたものでしたが、みな堂々、サバサバ、あっけらかんとしていて、これまた文化の違いかしらと思ったものでした。

グリーンカード(永住権)を得るために志願してベトナムの戦場に行き、車椅子で帰ってきた若者もいました。ひとたび戦場を見てしまうと、気がささくれだってくるのでしょう、同宿者と口論が絶えず、やがてライフルを持ち出してくるような男でした。怒りの矛先を探しあぐねて彷徨う彼の暗い眼差しを、私は今でも思い出すことができます。

ひとり者だったのぶこさんを挟んでさや当てが始まり、それを見てきいさんが過剰にキーキー反応するという、うっとおしい大人の世界(当時の私は子ども)もありましたが、食住付の仕事でしたから、その気楽さはありました。

今にして思えば、中年女性に見えたのぶこさんも、ほんとうはまだ若かったと思います。ふっくらした丸顔で、ゆっくりと九州弁を話したのぶこさんは誰からも好かれ、きいさんは日頃からちょっと面白くなかったのでしょう。のぶこさんの笑顔の裏には、実はどんな壮絶な人生が隠されていたのか、聞いておけばよかったなぁと思います。

きいさんは年齢からして、ずっと日系人社会で生きてきた人でしょう。戦争中に日系人が排斥された時の記憶も残っているはずです。なまりの強い Japanese English を話しました。

これらの仕事は、いうまでもなく‶外国人不法就労″で、時々イミグレの摘発もありましたが、前もって連絡が入ったりで、私が知る限りでは強制送還などという事態も見ませんでした。当時のアメリカはそれくらいに労働力も不足し、しごく‶寛容″な国だったのです。

そうこうしているうちに、半年が経過しました。(今ではあり得ない話ですが)当時の観光ビザは最初に無条件で半年間くれ、その有効期間のうちに一度アメリカを出国して、再入国すれば、また自動的に半年間のビザがもらえたのです。

ロスから国境までバスで3時間半ほど。誰もみな、いったんメキシコに出てビザの延長をしていました。最短は、国境の町ティフアナまで行ってトンボ帰りするコースです。

私はそれまで半年間しっかり働いたことだし、休暇を兼ねて、知り合いになったメキシコ人の実家がある、中部の都市グアダラハラまで行ってみることにしました。彼女の家は農園を経営していて、テキーラを作っていると聞いていたのです。

彼女の実家は、植民地時代の面影が残る瀟洒な建物で、すぐ目の前にテキーラの原料、りゅうぜつ蘭の農場が広がっていました。そこでできたてのテキーラをたらふくごちそうになり、初めて馬にも乗り、3日間ほどのんびりと過ごさせてもらいましたが、ビザの延長が目的だったし、仕事もあったので、その先には行かず、アステカの遺跡も見学しないですぐにロスに戻ることにしました。半年たてばまた訪れることになるので、その時までとっておくことにしたのです。

グアダラハラからティフアナまで、そのまま来た道を戻りました。「トレス エストゥレアス デ オロ」と書かれた真っ赤なオンボロ中型バスは発駅から満員で、おまけにみな山のような荷物を抱えていたので、屋根の上にも満載、足の踏み場もないほどの混みようでした。

当時はスペイン語がちょっとだけ理解できたのですが、話していることといえば、「〇〇の××は、ロスで3年働いて家を建てた」「オレは1年みっちり稼いで、帰りは自分の車を運転してくるんだ」等々、アメリカンドリームに憑かれた陽気なメキシカン達の熱い吐息で息苦しいほどでした。その雰囲気だけで酔っぱらってしまいそうな私も、ロスに戻ったらまたしっかり働いてお金を貯めようと決意し、まだ見ぬ国々を旅する自分の姿を夢想しながら国境到着を待ちました。

国境到着後の出国検査はやはりここも簡単なものでした。小さなザックひとつの私はフリーパスで、次なるチェックポイントのアメリカ税関に向かいます。ここでも私はノーチェックで、荷物も開けられることなく、拍子抜けするほど簡単に、ポン!と6カ月のスタンプを押してくれたのです。

ところが一緒にやってきたメキシカン達にはそうは問屋が卸さなかったようで、ひとりひとり大荷物を開陳させられ、隅から隅まで細々と検査されているようでした。ここは名うての麻薬密売ルートの1丁目で、むべなるかな、私ひとりだけが先に税関の外に出ました。そこに待っていたのは、それまで見たことがなかったような立派な「グレイハウンド」の大型バスで、私はステップを上がり、一番前の座席に陣取って、彼らの到着を待つことにしました。

しかし、10分待ち、15分、20分待っても、メキシカン達の誰一人として乗っては来なかったのです。そのうちに休憩所の方から、大きな身体をゆすりながら白人の運転手が乗って来て、「さあ、行くぞ~~」と、いかにもそれが当たり前の日常といったそぶりでエンジンキーを回しました。

ほんの4,5人の乗客を乗せたグレイハウンドは、一路進路を北にとり、私もじきに事態は理解できました。私のような、何の力も持たない一介の日本人の小娘がフリーパスで越えた国境を、彼ら隣国のメキシカンはだれひとり越えることができなかったのです。

左手に不気味なサンディエゴの軍港を認めながら、若くて多感だった私は、なぜ?なぜ?なぜ?と唇を噛みしめて、心の中で、不可視の国境を見た!と叫んだのです。

国境

*最後までお読みいただいてありがとうございます。トップ写真は、ネット上で拾ったティフアナの国境の壁です。ご承知のように、トランプ政権以前にはこんなものはありませんでした。最後の写真はボケていますが、国境を越えようとして亡くなったメキシカンの数を示した棺のモニュメントだそうです。拡大すると数字が読めます。


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