Oral history “母親河”(ムーチンハ)
3度目の坪頭です。まずはバス停の前で食品雑貨を商っている老板(経営者)のところに顔を出したら、取材できる人を捜しておいたから明日案内してくれるというのです。老板は前回バスの中で隣に座った人ですが、以前広州へ4年間出稼ぎに行っていたので、ほぼ標準語が話せます。ものの考え方も“進んで”いて、イラク情勢などについても語り、役所に配達される新聞も読んでいる人です。
彼が私の荷物も担いでくれてどんどん先へ先へと案内してくれるので、合計4人の老人から話を聞くことができましたが、うちふたりはすでに高齢のために記憶があいまいになっていて、文章化するのはちょっと難しそうです。80歳を過ぎていて、60数年前のことですから、わずかに断片的な記憶は残っていても、それを繋げていくにはじっくりと腰を据えて、やはり何度も何度も通わなければ無理だと思いました。
最後に、薛引儿さんという81歳の女性の家を訪ねました。老板がいうには、彼女は当時からの共産党員で、村の幹部も務め、あの時代の農村女性としては滅多にいない“教育を受けた”人だということです。まったく突然の訪問だったのですが、特に驚いた素振りもなく、彼女は多くは語りませんでしたが、ゆっくりかみ締めるような話し方で当時をふり返り、最後に遠慮がちに小さな声で、写真はいつできるのかと聞きました。そして次に来たらウチに泊まるようにといって、門口まで見送りに出てくれたのです。(*門まで見送るというのは、客人に対する敬意の現れ)
確かにこれまでに会った農村女性とはどこか違う、静謐ともいえる知的な雰囲気の持ち主でしたが、私は相変わらず、その場ではほとんど内容が聞き取れませんでした。しかしあとから老板に、彼女は日本人にお母さんを殺されているのだと聞いて一瞬耳を疑ってしまいました。
いったいなぜあんなにも穏やかでいられるのだろう?母親を少女期に殺害され、その後に初めて会った日本人に向かって、「あなたの活動は立派だ」と褒めることなど、どうしてできるのだろう?人間のスケールが違うというか、やはり黄土高原の過酷な自然生活条件が、ときにこういう人たちを育てるのでしょうか?
日本人の私が、ひとり“三光政策の村”で生活していると、正直辛い思いをすることもたまにはあるのですが、どこかでこういう人たちに出会えると思うと、自分はなんて幸運な人間なんだろうと思ってしまいます。
気の遠くなるような人類の悠久の歴史を紡いできた“母親河(母なる黄河)”のほとりには、やはりそれにふさわしい素晴らしい女性がいるものだと感動しました。
(2007-04-17)
|薛引儿《シュエインアル》老人(81歳・女)の記憶 薛家坡
42年に日本人がやって来たとき、薛家坡では日本人に3人が殺され、その中に私の母がいた。母は銃弾が中ってその場で即死した。
43年だったか44年だったかはっきり覚えていないが、坪頭で大虐殺が行われたときは、私たちはここから向かい側の坪頭の様子を遠目に見ただけだった。夜間に3つの大きな火が焚かれ、殺される人の叫び声や泣き叫ぶ声が聞こえた。
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