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なつめ
「なつめ」は2007年夏、中国山西省、黄河の畔に生まれました。私がシュエさんという老人の家を訪れて帰るとき、お孫さんに「犬は好きか?」と問われて「好きです。」とこたえると、待ってましたとばかりに、茶色っぽいふわふわの少し重みのある毛糸球が、私の両手の中にすっぽりと収まってきました。
私の置かれている状況から、犬は絶対に飼えないといくらいっても相手は聞く耳を持たず、バタン!と一方的に扉を閉められてしまったのです。‶毛糸球″は私の両手の中で身動きもせず、自らの運命を見知らぬ異国の人にすっかり任せきっているように見えました。界隈の農家では犬を飼っている家も多く、こんなにかわいい子ならもらい手もじきに見つかるだろうと連れて帰りました。
ところが、その犬は女の子だったせいもあって、なかなか引き取り手が決まらなかったのです。そうこうしているうちに私にも‶情が移り″、まあなんとかなるだろうと、自分で世話をすることに決めて、「なつめ」と名付けました。
黄河中流域は棗の原産地で、至る所、民家の庭から黄河の河川敷、黄土高原のなだらかな峰々の至るところ棗だらけで、秋になると赤褐色に熟した ‶紅棗″で村中が埋め尽くされました。
それからはどこに行くにも私たちは一緒でした。覚えたての中国語(標準語)も村の中ではほとんど通じず、崩れかけた洞窟部屋にひとり住んでいた私には、なつめだけが話し相手でした。ねずみも追い払ってくれたし、サソリの侵入も知らせてくれたし、もともと鍵などない部屋で、立派にボディガードの役目も果たしてくれました。針の落ちる音すらない夜更けの庭先で、煌々ときらめく月を眺めながら、行く先々を思ってはふたりでため息をついたものでした。
ところが、2012年、日本政府による尖閣諸島の国有化をきっかけに日中関係が悪化し、各地で反日デモが繰り広げられるようになってきたのです。当初は私の住む辺りはまだまだ平穏でしたが、年を越えると、いつ最悪の事態にまで進展するか予断をゆるさない状況になって来ました。その事態に備えて私はぼちぼち自分の荷物の整理を始めたのです。
そして、なつめをどうするか考えました。というのは、日本は動物検疫が世界一厳しいともいわれる国で、なつめを中国から連れて帰るには大変な手間と時間とお金がかかったのです。
間に半年をはさんで2度の狂犬病の予防接種。その後に血清を日本に送って検査を受け、OKが出たその後に犬を乗せてくれる航空券の手配をしてようやく連れて帰れるのですが、それらの手続きができる動物病院というのは、北京、瀋陽、上海の3か所にしかなかったのです。その上に、中国の鉄道は犬が乗せられません。私の住んでいた村から片道1000キロ近くを、車をチャーターして北京まで2往復半しなければならなかったのです。手間も時間も何とでもなりましたが、お金の問題が大きくのしかかって来ました。
しかし、事あれば私自身はすぐにでも帰国できますが、果たしてなつめだけを残して帰ることができるだろうか?私が住んでいた地域は、中国でも「国家級貧困地区」に指定された貧しい地域で、人心は時に‶粗暴″を剥き出しにして、生きるための闘いが日常と化す村々でした。
羊飼いの羊を襲った犬が、翌日には無実の犬までも何匹か巻き込んで農薬で毒殺され、飼い主不明の犬がいつの間にやら姿が見えなくなって、誰かの胃袋に収まるという‶事件″は、とりたてて話題になるほどのことでもありませんでした。
もちろんなつめをかわいがってくれる村人はいましたが、事態の悪化を受けて私が帰国した後に、‶日本人の犬″がどのような仕打ちを受けるか、それを思えば私は日本に帰ってからも生涯後悔しつづけるだろうと、やはりどんなことをしてでも連れて帰ろうと決心しました。当時人口60万人ほどのその行政区に暮らしていた日本人は私ひとりだけで、いつも一緒だったなつめは、近隣でも‶有名犬″だったのです。
そして、2013年4月、第一回の予防接種のために北京に向かいました。病気になっても簡単には医者にかかれない人々の暮らす村で、まさか北京まで犬の予防接種に行くなどとはいえず、太原に用事があるとウソを言って、まずは太原までミニバンで送ってもらいました。そして太原で1泊してチャーター車を工面して、片道500キロを一路北京へ。
この病院は政府推奨の病院で、建物の中に中国税関の出張所がありました。スタッフも手慣れたもので、あっという間に注射とマイクロチップの埋め込みが終わって、待ってもらっていた車に飛び乗って、再び太原へ。宿泊するとお金もかかるし、運転手の張さんも家に帰りたいということで、開通したての高速道路を爆走しました。
なつめが北京の地を踏んだのは、車から降りて、病院のドアをくぐるまでのほんの十数歩で、「ほら、なつめ、ここが北京だよ。空が見えないでしょう?」なんてやってるヒマは、ビタ1分とれませんでした。
なつめも分かるんでしょうか?行きの車の中では不安そうな表情をしていましたが、戻りの車中では爆睡でした。
そして半年後に、同じコースで再び北京へ。予防接種と血清を採って、諸手続きを完了させ、いったん村に戻って12月6日、なつめはANAの特別荷物室に入って無事に成田空港に到着しました。(結果的には日中関係は最悪の事態は免れることができました。)
それから今日まで、紆余曲折、それはそれはいろんなことがありました。今現在も、なつめは私の仮住まいのある長野県松本市で、私の友人と一緒に暮らしています。今年で14歳になりました。
しかし実は、2年前に私がカンボジアに居を変えて以降、なんとかしてなつめをこちらに引き取りたいと考えているのです。現在一緒にいる友人もその周りの人たちも、私以上になつめを‶溺愛″してくれているのですが、だからこそというか、「最期を看たくない。それは君の役目だ。」と前々から言われていました。それに、彼らの生活環境も変わり、犬を飼うということが、何かと難しくなってきているのです。
それで、昨年の夏には連れて来るつもりで準備していたのですが、まさかのコロナで現在も滞っている最中なのです。経由便では、経由地でどうなるかわからないし、時間も10時間以上かかります。成田→プノンペンのANA直行便が飛ばなければ安心して乗せられないし、第一、現在カンボジア政府が入国者に課している2週間の強制隔離が解除されなければ無理です。バンコク、あるいはホーチミンで受け取って、陸路国境を越えるという方法もないではないですが、それもまた国境での隔離が解除されなければ無理でしょう。現在はその解除をひたすら待っている状況です。
ところで、なつめはおそらく「チベタンスパニエル」という犬種の雑種だと思われます。(私はいつも毛を刈っていたのですが、実際はもっと長毛です。)
チベタンスパニエルは、もともとチベットの仏教寺院で愛玩されていた犬のようで、あのマニ車を廻していたのだそうです。顔こそ違うのですが、その他の特徴はぴったりと一致します。
カンボジアの4月5月は40℃を越えるし、元々暑さが苦手で、夏場にはへばっている犬でした。そんなところに連れていったら可哀そうだ、長くは生きられないよ、といわれるまでもなく、もちろん私自身も覚悟をしています。なつめももう十分に生きたから、稀有の犬生を送ったのだから、思い残すことはないだろうと。
チベットの僧院に祖先を持ち、ヒマラヤの峰を越えてはるばる黄土高原までたどり着き、黄河の畔に転生して、信州の山並みに育まれ、2度も空を飛んで、最後にアンコールワットを見て犬生を終えるのなら、なつめもきっと‶幸せな犬″だったと、たとえそれがどんなに短くとも、最期の時間をまた私と一緒に過ごせることを喜んでくれるはずです。なつめと一緒に暮らせるようになるまであと何か月かかるかわかりませんが、なつめ、それまで元気でいてね。じきに迎えに行くからね。