しみじみ寒い高原の宿 坪頭
坪頭という地名は、これまでに聞き取りをした人たちの中からも、日本軍による被害がとりわけ大きかった村として、たびたび名前が出てくるところです。前々から行きたい、行かねばと思っていたのですが、こういうところはどうしても気が進まないものです。村人たちは、とりわけ老人たちはどんな眼差しで日本人の私を迎えてくれるだろうか?
実は昨年12月16日に、私は様子を見るためにひとりででかけました。樊家山から直線距離は50キロもなく、高みに登ると、はるか彼方にそれらしき一帯が見えるのですが、交通の便がないので、一旦離石まで出て、そこから坪頭行きのバスに乗り換えると、けっきょく3、4時間はかかります。樊家山に登るのとよく似た感じの道のりでしたが、途中に大きな炭鉱があるので、石炭を満載した大型トラックがすれ違い不能になって、しょっちゅう渋滞するようです。
村というか町というか、樊家山よりはずっと大きな村で、民宿が一軒と食堂が一軒と雑貨店などが7、8軒並んで、小学校も政府の建物もありました。ここは臨県ではなく、南隣の離石県に属するので、樊家山よりは交通の便もよく、ミニバンで離石までの乗り合いタクシーを営業している人も数人いるようです。
この界隈のバスは、みな個人経営で、それぞれその村の人が所有しています。樊家山でやっている人はなく、隣の段家塔にオーナーがいて、村を朝に出て離石あるいは臨県まで行き、昼間はそこに停車していて、午後になると町から村に帰ってくるわけです。つまり1日1往復、しかもみな日帰りで用事を済ませたい人ばかりなので、朝はだいたい6時とか7時に村を出ます。夕方も早めに村に戻りたいので、午後2時とか3時に町を出るわけです。つまりその時間帯以外に町に行き来したければ、ミニバンをチャーターするわけで、坪頭は、それだけ離石との行き来がある村ということになります。
そして、行ってみてわかったことは、ありがたいことに、坪頭はネットが繋がるのです。村の向かいの山に、ど~ん!と「移動」と「聯通」の2本の通信塔が聳えていました。おお、間違いなく、ここは町です!
ところが、この町は水の便がとても悪く、生活用水はやはり天水にたよっています。天水というと、私は屋根の上に何か受け皿みたいなものを置いて集めるのかと思っていたのですが、そうではなく、地面に降った雨が通路を通って水槽に流れ込むようにしてあって、見たところは地下水を汲み上げるのと同じような井戸ですが、要するに‶ため井戸″です。当然、屋内に蛇口のようなものはなく、甕に汲み置いたものを柄杓で汲んで使います。樊家山より人口が多い分だけ、より貴重なわけで、一日に2回顔を洗うのは贅沢だといわれました。
村にはかなり大きな小学校があるのですが、そのスロープを登ったあたりに「坪頭惨案記念碑」が建っていました。崖っぷちにあったので、恐らくはその現場跡に建てられたものでしょう。以下は碑文概訳です。
「1943年旧暦9月29日から10月1日にかけて、日本軍は抗日根拠地の軍民に復讐するために三交、柳林、大武などの駐屯地から1000余の兵力を結集し、近隣24ヵ村を包囲して焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くす三光政策を実行し、各村から連行した107名の民衆をこの地で惨殺した。この国辱を我々は忘れることなく次の世代への警示としなければならない。」(2007-03-17)
高原の宿
去年初めて坪頭に行ったときに、実は私を知っている人に3人も会ったのです。ひとりはバスの車掌で、私も彼には記憶がありました。もうひとりは、衣料品店をやっているおじさんで、彼のお父さんが樊家山の人でした。そしてもうひとりは雑貨屋を営む若い男性で、離石の聯通公司(プロバイダー)で私を見かけたというのです。そこで私は聯通の人に聞かれるままに、こちらで何をしているかを話していたそうです。彼は今後の協力を約束してくれました。
泊まった民宿は、2階建ての1階でオートバイの販売と修理をしており、2階の手すりには、「SUZUKI」と大書された垂れ幕が下がっていました。
で、民宿の薛さんに電話を入れておいて、3月8日、私はカンルーと一緒にいよいよ取材に出かけました。パソコンとカメラとビデオとMP3にケーブル、バッテリー等々の付属品と三脚、それに食料品という重装備に、やはりいつもよりは緊張した心持ちだったような気がします。
薛さんには前もって連絡をとっておいてほしいと頼んでおいたのですが、「な~に、ここの年寄りなら誰だって覚えてるさ」と、けっきょくはアポなしの訪問となってしまいました。
“惨案”が起こったのは1943年です。そのときに中学生くらいだとすると、現在80歳くらいの年齢になります。こちらでは平均寿命が日本よりずっと短いので、80歳を越える老人の数は少なく、その中から記憶の確かな人を探し出すのはなかなか容易なことではありません。今回取材できた4人のうち2人は、自分の父親から聞いた話だということでした。
しかし、あまりの寒さと不便さとトイレの汚さに、カンルーの方が音を上げてしまい、途中で帰りたいと言い出したのです。彼女がいなければ取材はできません。彼女も実家は臨県のマンション暮らし、大連生活も長く、こういう田舎は(樊家山よりずっと町ですが……)どうやら耐え難いようです。
水は貴重な天水で、停電になっても懐中電灯ひとつなく、外にあるトイレの汚物はガチガチに凍り付いて、尖った小山を形成していたのです。以前読んだ『シベリア抑留体験記』の一節など思い出しながら、あぁここはほんとうに寒いと、しみじみ春が待たれる“高原の宿”。やむなく、新たに出直すことになったのです。 (2007-03-21)
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