大地の芸術祭

「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ 2024」が開催された。

わしはこの芸術祭を中学生のときに一度見に来た。

草間彌生の作ったヘンテコな花を遠目にみて
「へんなの。」
とつぶやいた記憶がある。

まだそのときは知り合いだった友人に誘われて、お盆にパスポートを買い、初めて大地の芸術祭をしっかり見て周った。

あの草間彌生のヘンテコな花のイメージがこの芸術祭に強かったわしは衝撃を受けた。

めちゃくちゃ面白い。なにこれ。

当時よりも展示の数が圧倒的に増えた芸術祭、人の数だけ思想がある世界が近所に広がっている感覚がした。

じぶんがこんなにハマると思わなかったっていうくらいにハマって、開催期間のギリギリまで、ほぼほぼ週末(隙を見て平日)はこの土地に通った。

パスポートにスタンプを押すたびに、じぶんの中に作品が波になって押し寄せてきて、その波をすくってみたりよけてみたり、ときには流されてみたり、いろいろな漂流物が漂っていて、その中からお気に入りをつまみ上げて波に還す。作品とじぶんの中でとても感じのいい時間が流れていた。

そして、作者の感情が丸出しの作品はじぶんにとってしんどかった。
急に押し寄せてくる漁獲網のように、グワっと何かが絡まってくる感覚がして、そういう作品からは逃げるようにして会場を離れた。

昇華されていないアートの苦しさ。

1番苦しいのは、これを表現した作者なのかもしれない。
そう感じることが苦しかった。

じぶんにも身に覚えがある。

感情をただただ描き殴った絵や言葉は、後から見返すとチープで幼稚で、何も解決しない苦しさがあった。
もがきかたが独りよがりなんだと今は感じられるけれど、そのときはそうするしか方法が分からなかったような気もする。

そんな個人の葛藤を、この秋にいくつか見て思った。

昇華するまでの過程、この過程を受け入れることができたらいいな。。見苦しいとかそうじゃなくて、苦しいかもしれないけれど、みんな何かの中でもがいたうえできれいな一面をひとに見せているのだとしたら、もがいて汚れた一面はそのきれいな一面を作り上げる下地みたいなもので、それがなかったらきれいにはならなかったのかもしれないんだな。

と、腑に落ちた。

昇華できていない物事への腹正しさや軽蔑が、すぅーっと溶けていくような。
解けた心で、より強く、じぶんの気持ちを昇華できる準備が進んだような気もした。

もう一つ、この大地の芸術祭で受け取ったことが、暮らしの芸術性だ。

雪深い土地の暮らし。
自然に沿った暮らしの美しさを取り上げた作品が多いように感じた。

農具や空き家。石や車庫。

使われなくなった道具たちが原色の中で漂う。

現代社会の暮らしとは少し違う生活様式を美しいと感じることが、なんとなく不思議に思っていたのがはっきりと視覚化されて気づいた。

自然が美しいのだから、
その自然に沿って暮らすことは美しいにきまっている。

なんともシンプルだった。

今の暮らしを複雑に捉えていたけれど、そうだ、シンプルでいいんだ。複雑にみえるけれど、自然にそうなっているシンプルさが確実にあるのだと、背中を押してもらった気分だ。

遠くの山の美しさに、
"大地の芸術祭"の名がはっきりと映し出されているようにみえた。

そんなこんなで会期を終えて、
あの、夏から秋にかけての期間は
夢だったのかもしれないと思っている。
車でなんども行ったり来たりした作品にたどり着くための国道が、すっかり生活感を取り戻した。

アートなんて、そんなもの最初からどこにもありませんよ。

なんて顔でオブジェが道の脇に佇んでいる。

みんな、どこに芸術を隠したんだろう。
また3年後に、土からひょっこり出てくるんだろうか。

これから長い冬がはじまる。

あの積もりに積もった雪の中にいるじぶんを想像した。

また、大地の芸術祭に帰りたい。

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