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"食堂のおばあちゃん"から私が感じてしまうヘルジャパンと「アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?」について
「こなつさん、コーヒー飲む?」
夕方少し休もうと入った職場にある小さな食堂で、"食堂のおばちゃん"が声をかけてくれた。
冷蔵庫から出てきたのは、セブンイレブンの缶のコーヒー。おばちゃんは少し甘くないと飲む気にならないから、と無糖の缶コーヒーを私にくれた。
私はチョコを食べようと思っていたから、ぴったりだった。お礼を言って、すぐにあけて飲んだ。
無糖の缶コーヒーは確かに美味しくない。だけど仕事中に誰かからもらった缶コーヒーは特別に嬉しいものだ。
親切にしてくる食堂のおばちゃんを目の前にして、私は切なくなった。
いつも「いーの、いーの」と言ってくれるおばちゃん。
実はこの職場に来てからずっと、食堂のおばちゃんに親切にされるたびに、モヤモヤしていた。
だっておばちゃんはみんなに優しいのに、いつもペコペコしているのに、みんなは、会社は、社会はきっとおばちゃんに優しくない。
残ったコーヒーを帰り道に口にいれた私は、ずっと気づいていたモヤモヤを書き残すべきなんだと気付いた。
みんなも会社も社会も優しくない
食堂のおばちゃんは高齢者ではないけれど、決して若くはない。
背が少し曲がっていて、いつも調理テーブルに肘をつきながら毎日社員のご飯を作ってくれているおばちゃん。
調理しているときも洗い物をするときも肘をついて身体のバランスをとっているようだ。
私たちの昼ごはんを作ってくれているのに、本人が食べているのはコンビニのパンやカップスープ。目の前に自分が調理した定食があるのになあと悲しい。
調理場には十分と言える空調はなく、夏は暑そうだし、冬は寒そうだ。
たまに暑くないですか?とか寒くないですか?と聞くと笑顔で「食堂からの空調がくるから大丈夫」と言っている。
さらには古い建物だから階段が急だ。
毎朝、両手で手すりを持ちながらゆっくりゆっくり上がっていく、食堂のおばちゃん。身体は手すりを頼りにほぼ傾いている。荷物も両手いっぱいもっていて重そうだ。
身体が思うように動かないからか、階段だけでなく移動も大変そうだ。
夕方にいつも息子さんに迎えにきてもらっているおばちゃん。
お昼時間が終わるのは14:00頃だし、きっと勤務時間は終わっている。だけどいつも16:00すぎまで食堂の調理場に座って息子さんが来るのを待っている。
お昼を頼んでいる社員はいつも「お願いします」とか「いただきます」とか言って、おばちゃんに定食を出してもらう。
もちろん決して失礼な態度の人はいない。食べ終わったら「ごちそうさまです」と真顔で言うだけだ。どんな料理が出てこようが、真夏の調理場を見ていても、寒い日であっても、同じ言葉だけ。
だれもおばちゃんの毎日を気にしていない。
毎日ここまで来るのは大変なのでは?
身体に優しい椅子は準備できないのだろうか?
空調をつけてあげられないのだろうか?
毎朝階段をのぼる時間にお手伝いできないのだろうか?
なんだろう?おばちゃんはそこにいるのに、毎日ここにいるのに、多くの人には見えていない存在のように思える。
間違いなく私たちはおばちゃんが作った料理を食べている。
なのに”おばちゃんが作ってくれた”という事実は知らず知らずのうちに透明化されているようだ。
どことなく感じるのだ。職場全体に無意識に広がっている、おばちゃんの仕事は重要でない仕事の一種だという認識。
だから誰もおばちゃんのことを気にかけない。
”料理を作ってもらう”という時間の上に経済は成り立ってきたはずなのに
なぜ、食堂のおばちゃんの仕事は軽視され、職場環境さえ、まともに整えてもらえないのか。その答えはこの本に書いてる気がした。
アダム・スミスが研究に勤しむ間、身の周りの世話をしたのは誰!?
女性不在で欠陥だらけの経済神話を終わらせ、新たな社会を志向する、スウェーデン発、21世紀の経済本。
格差、環境問題、少子化―現代社会の諸問題を解決する糸口は、経済学そのものを問い直すことにあった。
アダム・スミスとは近代経済学の父という異名を持つ学者で、かの有名な「国富論」を1766年に出版した。
現在の資本主義社会、経済第一主義社会はその「国富論」を土台に語られているようだ。「神の見えざる手」という言葉は確かに教科書で習ったような気がする。
「国富論」でアダム・スミスが述べていることを端的にまとめると
「人間が”利己心”を持つ限り経済は成長を続ける」である。
”神の見えざる手によって、モノやサービスの価値は適切なところへ必ず戻る。
資本主義社会では全ての人が豊かになっていく。豊かになるから、格差もいずれ消え去っていく。” のように書かれているらしい。馬鹿らしい。
すでに出版されてから300年以上が経つが、社会は豊かになっているのだろうか。全ての人が豊かになっているのであれば、経済格差はなくなっているはずである。
なぜ国富論は夢物語になったのか
主に女性たちが引き受けている「家の中」でのケア労働はその”素晴らしい”論理の中には含まれていなかったのだ。無償労働なのである。
さらにはアダム・スミス自身も、どうやら母親にずっと身の回りのケアをしてもらっていたマザコン学者だったようだ。
アダム・スミスの母親の名前はマーガレット・ダグラスという。アダムが生まれる半年前に夫に先立たれ、その後再婚せずに息子の世話をし続けた。
息子は生涯独身であったので、母に死ぬまで依存し続けたことになる。
『国富論』で母親のことが語られることはない。
著者はここから、経済学が語る市場とは別に、あまり語られることのない「第二の経済」があり、市場はその上に成り立ってきたと述べる。
それは、主に女性が引き受けてきたケアや配慮や依存といったものが支える経済である。
現代の資本主義社会は男たちの猛烈な働きっぷりによって回ってきたと思い込まされてきたが、第二の経済があるからこそ、その”表”の世界が成り立ったのだ。
彼らにとって女性たちのケアは”裏”の世界であり、注目もしないし重視もしない。むしろ軽視している世界であり経済活動ともみなしていない。
男の世界で大事なのは表の世界であり、あたかも自分たちは自分たちの力だけ朝から晩まで生きているような振る舞いだ。健康であることが前提で、そこに老人や赤ちゃんや汚いものは存在しない。
家に帰れば奥さんやお母さんが作ったご飯を食べ続けてきたのに。
子どもは奥さんやお母さんによって生かされ、家族は成り立ってきたのに。
食堂のおばちゃん ではなく名前を呼ぶ社会に
「女性が料理を誰かに振る舞う」という仕事。
”表”の世界では今でも軽視されている。
だからおばちゃんの職場環境が良くならないし、価値の高くない仕事だという空気が広がっている。
そして”食堂のおばちゃん”は誰が働いていても”食堂のおばちゃん”ではないか。
女性が社会で若い”女”や”母親”や”おばさん”を勝手にラベリングされるように。
彼女が生きやすくなることは、社会のあらゆる女性たちが生きやすくなること。
”食堂のおばちゃん”呼びを反省し、私は○○さんと呼び方を改めた。できることは小さいことばかりだけど、それを職場のみんなにも広めていこう。
○○さん、いつもありがとう。毎日、ご馳走様です。