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「学びえぬものをいかに学ぶか」について、デザイン研究者に聞かれた

もう3ヶ月ほど前になりますが、デザイン研究者の上平崇仁さんにインタビューをしていただきました。「デザイン態度」についてのリサーチの一環というお話だったんですが、さほど深い理解もないままに、とりあえずお引き受けしてしまいました。

はたしてそこでどんな会話が繰り広げられたのか...興味を持たれた方は上記リンク先を見て/聞いていただくとして、ここでは別の角度から、その後に考えたことを少しだけ追記しておきます。

このインタビューのときに私がフォーカスして答えていたことは、「フィールドでの対象(人びと)への向きあい方」だとか、「(彼らの生きる)世界の捉え方」とか、そういった部分だったように思います。それ自体はたしかにお話したとおりなんですが、人類学的な「態度」というテーマに関しては、まだ何か大切なことが残っているような...そんな感触がありました。そして、はたと気づきました。「向きあう」「捉える」と表現するとまるで私が主体的/能動的なフィールドワーカーであるかのようだけれど、現実ではちっともそんなことはない...という事実に。

フィールドで(あるいは日常生活でも)私の身に起こっていることを端的に表すとすれば、それは「何かを与えられ、それをいただく」「何かに誘われ、それを受け入れる」のような行為の連鎖であることが大半でした。それにまつわる無数にあるエピソードの紹介はまたの機会に譲りますが、たとえば前回のエッセイにもあったように、私は自分からどんどん場の中に乗り込んでいくというよりも、不意に誘われた機会に乗じるだとか、知らない人からとりあえず何かを受け取ってみるだとか、そういった出来事の連鎖に身を委ねることが大半でした。

このように説明するとまるで何かを引き寄せる特殊な能力でもあるかのように、あるいはただ流されているように聞こえてしまいそうですが、そうではなくて、私の知るすぐれた人類学者たちは、みなさん一様に「何かを受け取る」ことに長けています。それは物理的なモノであれ、言葉であれ、感情であれ、不可思議な行為であれ、人から発せられた何かを一旦は受けとめてみること、あるいは面白がってみることに、とても長けている気がするのです。そういう態度はまさに「積極的な受動性」とも言えるようなものですが、その態度があってはじめて、何かを理解するということのスタートラインに立てるような気がしています。

主体的な個人が想定され、積極的な行為が奨励される現在の世界で、「他者に自分を委ねてみる力」というのは過小評価されてしまいがちです。けれど、何かを受け取り、あるいは受け入れることから、人間の関係性は始まると、私は贈与や社会関係の研究をしてきたときから確信しています。そんな話もまた詳しく書いていければと思っています。


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