遠い島の友を失った日のこと #1
物理的にでも、精神的にでも、誰かを失ったとき、まず圧倒的に押し寄せるのは、もちろんその人と過ごした時間の記憶だ。けれどそこから連鎖するようにして、また何か別の、深い喪失の記憶にとらわれることもある。
今日、ふと、サネのことを思い出した。
初めて会ったとき、サネは19才で、私は24才だった。いや、初めて「会った」と書いたけれど、「私が彼女をじっと見て、彼女はそんな私を察知した」というのが適切かもしれない。そのときの彼女は、身体じゅうから警戒心の強いオーラを発し、周囲というよりもむしろ世界全体に対して、透明だがはっきりと存在する壁を作っていた。彼女が働いていたのはトンガ王国の北部にあるヴァヴァウ島の中心、ネイアフという町だった。多くのオセアニアの離島がそうであるように、「中心」といってもそれは半径数百メートルほどの小さなエリアでしかない。ただしトンガの他の島々とは違ってネイアフは天然の良港だったので、ヨットやクルーザーが定期的に訪れ、外国人観光客で賑わいをみせることもあった。
彼女はそこのマーケットの土産物屋で働き、パンダナスの葉で小物を編むなどして観光客に売っていた。私が最初に彼女を見たときは、とても器用な手つきで、細い紐状に割いた葉からブレスレットを編んでいた。小さな椅子に腰かけ手元だけをじっと見つめてうつむいたまま、私と全く目を合わせなかったのは、彼女が作業に集中していたからなのか、あるいはふらりと1人でやって来た正体不明なアジア人の私をいぶかしく思ったからなのか、わからない。おそらく後者だろう。当時私は「初めての海外フィールドワーク」に来たところだった。その後私はこの国に15年以上通い続けることになるわけだけれども、この頃の私にそんなことが予想できるはずもない。ただ1人の大学院生として人類学の研究を進めるなかで、たまたまトンガに行くことになり、後先考えず、見ず知らずの土地に飛び込んでみただけだった。
まだ駆け出しのフィールドワーカーだった私は、青臭い好奇心や冒険心のようなものはそれなりに持ちあわせていたが、現地の言葉を理解することもできず、知り合いもおらず、予備調査と称してあてどもなくその島に来たのだった。あまりにもあてがなかったので、とりあえず人びとが集まる場所を眺めてみようと考え、マーケットの片隅に座り込み、そこで目にしたものをひたすらノートに書きつけるなどしていた。マーケットの売り子たちは観光客に慣れていたものの、その多くは欧米人のカップルや家族連れで、そこはバックパッカーもほとんど行かないようなエリアなので(東南アジア等とは異なりオセアニアは旅費も物価も高いのだ)、私のように単身の若いアジア人の女の子というのはかなり珍しかったはずだ。そういう地域でしばしば働いているJICAのボランティアでもなければ、何かの他の仕事で来ていた訳でもなく、はっきり言えば私は「何者でもなかった」のだから、なおさら謎めいた存在だっただろう。
マーケットのおばちゃんたちはそんな私にもとても親切で(あるいは不憫に思われたのかもしれない)、濃厚な甘さのバナナや油でテカテカしたドーナツを分けてくれた。そこから言葉の壁をものともせずおばちゃんたちと急速に仲良くなり、どんどん現地社会に溶け込んでいって...となればフィールドワークの成功譚となるのだろうが、現実はそんなに甘くはない。あいさつ程度にしかトンガ語のできなかった私が、片言の英語のおばちゃんたちと取れるコミュニケーションなど、たかが知れているのである。それでも辛抱強くそのマーケットに何日か通ってみたところ、ひとりのおばちゃんが、「サネと話せばいいよ、この子は英語も上手だし、歳も近いだろうから」といって、私に彼女を紹介してくれた。そして冒頭のように、全身で警戒する彼女と私は「出会った」のである。
サネにとって私が招かれざる客であったことはその気配から明らかだったが、さすがに彼女も諦めたのか、「仕事が終わる時間になったら一緒に私のお母さんであるアレマに会いに行こう、アレマはすぐそこのTシャツ屋さんで働いていて、彼女も英語は話せるから」と言った(トンガでは親のことも名前で呼ぶのが一般的である)。そして夕方になると、私たちは一緒にアレマの店へと向かった。無口なサネとは対照的に、アレマは社交的な女性で、その温厚な笑顔が印象的だった。私は簡単な自己紹介をした後に、初めてのヴァヴァウ島をもう少し見てまわりたいと考えているのだけれど、どこかお勧めの場所はありますか?と尋ねた。アレマは少し考えて「私は車も持っていないし何もしてあげられないけれど、週末に自分達が住んでいる村のダンスパーティーがあるから、よければそこに来る?」と言ってくれた。「町」ではなく「村」に行ってみたかった私は、二つ返事でその有難い誘いを受けいれた。
そして週末のその村のダンスに行き、そこからサネと少しずつ話すようになった。翌日もまたその村の饗宴に呼ばれて行き、また次も...と、そのとき滞在していた町のゲストハウスと村のあいだをバスで何回か往復した。するとアレマが「そのゲストハウスの代金は一泊いくらするの?もったいないからうちで良ければ泊まりなさい、とても狭いけれど、それでもよければ。」と言った。私はそそくさと荷物をまとめ、ゲストハウスを引き払った。
サネは早くに病気で父親を亡くしており、母親と妹2人との4人で暮らしていた。その家はアレマが言ったとおり(つまり謙遜ではなく)本当に狭かった。約6畳ほどの空間にトイレだけがついたその小屋は、伯父さんの家の敷地に建てられたものだった。そんなスペースに彼らは私を招き入れてくれて、1台しかないベッドに私を寝せてくれた。それは本当に有難くて、本当に申し訳なかったけれど、とはいえ私にとってはそれなりに過酷な経験でもあった。その時の季節は夏で、コンクリートブロックで建てられた家はまったくの無風で、ドアを完全に開けていても蒸し風呂のように暑かった。だらだらと流れ落ちる汗を感じながらどうにかして眠りにつくと、今度は足元に無数のアリがまとわりつき、それに咬まれて激痛が走る。アリとの闘いに疲れ、やっと気温も下がり寝つけた頃には、村の教会の鐘が容赦なく鳴り響き、トンガの早い朝が始まるのだった。
サネの家に滞在していたとはいえ、平日の日中は彼女は仕事があるので、一緒にバスでマーケットに行き、そこでお喋りをしながら過ごし、またバスで村に帰るという生活だった。それでも私は嬉しかった。彼女は私にとってトンガ人として初めて「ちゃんと話せる」相手だったし、調査に来ていた私には聞きたいことがたくさんあったから。正直なところ最初私は彼女を「良きインフォーマント」のように捉えていたところもあった。けれど私が色々と「トンガの文化に関する」的外れな質問をし、年下の彼女に呆れ顔をされるなかで、ああどうやら今の私は見当外れなことを聞いているし、調査とはこういうことではなさそうだな、と薄々気づきはじめた。
肝心の「調査」は一向に進まなかったが、人見知りの期間を過ぎるとにこやかになり、頭の回転の速い彼女とのお喋りは、純粋に楽しかった。生まれてから9才までをニュージーランドで過ごしていた彼女は、その頃の記憶を嬉しそうに私に話してくれ、やがて自分のボーイフレンドも紹介してくれた。休みの日になると、サネと彼女のボーイフレンドと私の3人で誰もいないビーチに行って、木陰で川の字のように寝そべって、他愛もないお喋りをした。何でもすぐに噂になってしまう村社会のなかで、よそ者の私にだからこそ打ち明けられるような話もあったのだと思う。遠浅でターコイズブルーの海を眺めながら、3人それぞれの将来の話をして笑いあった時間は、とても穏やかだった。(つづく)