“休日“という言葉の定義のミスコミュニケーションが原因で、一触即発になった夫婦の話
ある土曜日の夕方。夫は仕事が休みで、夫婦で子どもたちと全力で遊んだ日中を労るように、夜ご飯はステーキと赤ワインを。
最高という言葉以外思いつかないような場面だった。
私は「うぉぉぉ休日さいこうー!!!!!」と叫んだ。
に対して夫の言葉は、「俺にとっては休日だけど、なつこにとっては休日じゃないでしょ?」というものだった。
おや?と思った。穏やかじゃないですねぇ、と思った。
仕事をしている俺にとっては休日だけど、年中専業主婦のお前が休日感を感じるだと?という意味ですか、と思った。仕事をしている俺と同じ土俵で休日を語るのか?と思っているのかと思った。
でも、蓋を開けてみたらそんなことなかった。よく聞いてみたら、夫は、「なつこにとっては休日ではない」という言葉を、私の想像とは真逆の意味で使っていたのだ。「休日に俺が戦力になるとはいえ、なつこは平日も休日も育児に家事にやらないといけないことは同じ。だから、休日とはいえ休んでいるわけじゃないよね」ということだった。
いや、そうだった。少し考えれば、夫はそんなこと言う人ではないことはわかりきっていた。専業主婦である私への労いを忘れたことはない人だった。なのに、私は「なつこにとって休日ではない」という言葉を、悪意ある言葉と変換して捉えたのだ。これは単に、私の、自分自身の捉え方をあわらしているに過ぎない。私は、私の日常に、日々の行いに、自信が持てていないのだ。自分の、現状の自己肯定感の低さに愕然とした。
コミュニケーションは難しい、と改めて思った。同じ文章を認識した2人が、全く別の意味を想像することがあるのだ。怖い、恐ろしいなと思った。その人がどのような心の状態かによって、その人が認識する「真実」が私の認識する「真実」と全く別物の可能性があるのだ。
ただ、今回のミスコミュニケーションで良かったことといえば、ムッとした私が、すぐにその気持ちを一度消して、「今のって、どういう意図で言ったの?」と改めてその根底にある意味を問うという一歩を踏み出せたことだ。その問いがなければ、きっと私は、明日までもやもやを引きずっていただろう。
きっとこのような齟齬が、夫以外の人とも、日常生活の色々なところに転がっているんだ。だからこそ、自分が感じた意味づけだけでなく、「本当はどういう意図でそれを口にしたのかな?」「とういう意図でその行動をしたのかな?」と問うこと(相手に問うのが難しいとしても、自分自身で別の可能性があることを認識していること)がとても重要なのではないかと思った。