ボルセーナ湖を中心とするエトルリア圏でキリスト教が認められるのに貢献した聖クリスティーナの真の姿とは
キリスト教には、たくさんの聖人がいます。模範的な信仰と徳行を示し、奇跡的な出来事が関連付けられた人物が、教会によって列福および宣聖されるのですが、キリスト教史初期の聖人は、主に、ローマ帝国によってキリスト教が禁止されている中、どのような苦難にあっても、信仰を貫き、殉教していった人達でした。
中でも4世紀初頭、ディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害により殉教した聖クリスティーナは、数多くの拷問を受けました。
ヤコブス・デ・ウォラギネが1260年頃に書いた黄金伝説によると、聖クリスティーナは、イタリアのTiroで生まれた貴族の娘で、とても美しく、たくさんの男性から求婚されました。(現レバノンのフェニキアの都市ティルスで生まれたと勘違いされることがありますが、それは、聖クリスティーナについて最初に書かれたのがエジプトで、地理的な間違いがたくさんあったためです。実際は、中部イタリアのボルセーナ湖の北岸、現在は緑で覆われてしまい町の痕跡が残っていないティーロで生まれています。)しかし、両親は、娘を巫女として神々に捧げようと思っていたので、すべての誘いを断っていました。そして、クリスティーナが11歳の時、父親は、金銀でできたローマの神々の偶像を崇拝するよう、12人の侍女とともに塔に閉じ込めます。しかし、聖霊から教育を受けていた娘は、キリスト教であることを宣言し、神々を拝まなかっただけではなく、偶像を砕き、金銀を貧しい人々に施してしまいました。
父親の説得にもかかわらず、クリスティーナはローマの神々への信仰を拒否したため、父親は激怒。そして、彼女は逮捕され、鞭打ちの刑罰を受けました。が、それでもキリスト教への信仰を貫きました。それゆえ、次には、火のつけられた車輪に縛り付けられます。しかし、炎に包まれ亡くなったのはクリスティーナではなく、1500人の多神教徒でした。そして、彼女にはさらなる苦難が待ち受けています。首に石臼をくくりつけられ、ボルセーナ湖に放り投げられたのです。しかし、クリスティーナは、キリストによって送られた天使に救い上げられ、岸まで導かれ、さらにキリストから洗礼を受けました。
その知らせにショックを受け急死した父親の後任の裁判官はさらに残虐で、クリスティーナは煮えたつ油の大鍋に沈められます。しかし、彼女は火傷を負うことはありませんでした。拷問は、まだまだ続きます。次には、頭を剃られ、裸でアポロ神殿の前に連れて来られます。すると、彫像が粉々に崩れ落ち、裁判官も突然死してしまいました。次の裁判官は、クリスティーナを5日間も炉の中に押し込めますが、天使に励まされ火傷ひとつ負いませんでした。その後も次々と拷問を受けますが、彼女は抵抗を続けます。投げ込まれれた毒蛇を飼いならし、切断された乳房からは乳をほとばしらせ、切り落とされた舌を逆に処刑人に投げつけ、彼を失明させます。
しかしながら、最後には、2本の矢に射られ、クリスティーナは殉教しました。
彼女の遺体はボルセーナ湖ほとりのカタコンベに葬られ、その後11世紀にその上にサンタ・クリスティーナ教会が建てられました。
そして、ボルセーナ湖で溺れることなくキリストから洗礼を受けた聖クリスティーナは、ボルセーナだけではなく、トラジメーノ湖、オルタ湖、パレルモの海、コルシカの海岸、ポー川の沿岸で水の守護聖人として崇拝されています。
しかし、何ゆえに、聖クリスティーナは、このような過酷な拷問を何度も何度も受けたのでしょうか。
これは、キリスト教の布教が、この地方では大変難しかったこと、それでもなお、布教に成功したキリスト教の強さを表していると解釈する学者がいます。
イタリア語で、キリスト教徒にとっての異教徒のことをpaganoと言います。この言葉は「村」を意味するラテン語のpaganusから来ています。都市部では、急速にひろまったキリスト教ですが、村の住民は、従来の神々への信仰をなかなか捨てませんでした。そのため、都市部の人にとって田舎者=異教徒であったためです。
特に、クリスティーナが生まれたボルセーナ湖周辺は、宗教儀式を重んじ信心深い民族であった古代エトルリア人が住んでいた土地であり、新しい宗教には強い抵抗がありました。
さらに、クリスティーナが殉死した都市ヴォルシニイ(現ボルセーナ)には、エトルリア時代、12都市連盟の各都市のルクモネ(宗教、政治の権力者)が、年に一度集まり、共同で祭祀を行っていたファヌム・ウォルトゥムネ(エトルリアの最高神と考えられるウォルトゥムナに捧げられた聖域)がありました。つまり、ボルセーナは、エトルリアの宗教の中心地であったのです。
エトルリアの神を拝む祭祀は、古代ローマ時代に入ってからも続けられており、キリスト教を公認したコンスタンティヌス1世が、ウンブリアのスペッロの住民に、遠くヴォルシニイまで向かうことなく独自で祭祀を行う許可を与えたことが刻まれた大理石版もみつかっています。つまり、クリスティーナが殉教したディオクレティアヌス帝の時代は、エトルリアの神々への信仰が依然として行われていたことになります。
さらには、中世に入っても、エトルリアの儀式を禁止するローマ教皇の大勅書が出されており、この地域でのエトルリアの神々への信仰がいかに篤く残っていたかを語っています。
そのため、ボルセーナでのキリスト教の布教が困難を極めたことは想像に難くありません。
ただ、エトルリア人の生活に宗教が大きく関わっていたこはわかっていますが、エトルリアの神々についての情報は、ローマ時代、キリスト教時代に消し去られ、文献が何も残っていないため、詳しくはわかっていません。
ヴォルシニイ(現ボルセーナ)に聖域があったことが確かなエトルリアの最高神ウォルトゥムナについても、性別を始め詳しいことは何もわかっていないのです。(最高神であっただけに男性神であったと考える学者が多く、中には両性具有であったという人もいます。)
しかしながら、世界で2番目に大きいカルデラ湖であるボルセーナのあるこの地で、紀元前4000年銅器時代には、すでに水への信仰があったと考えられ、キリスト教時代に入るとこの地では、水の守護神である聖クリスティーナが崇拝されているとなると、この地に聖域のあったことが確かなエトルリアの最高神ウォルトゥムナは、水の女神でもあったと考えられるのです。(エトルリアの最高神は男神ではなく、女神だったのです!)
クリスティーナのもともとの名前は、民間の伝承によると、Vorsiniaであったと言われています(エトルリアの女神ウォルトゥムナに近い名前です)。それが、聖人になるにあたりクリスティーナという名前が与えられたのです。Cristinaは、Cristo(キリスト)の女性形です。そして、クリスティーナは、キリストのように殉教し、キリストのように新しい命に生まれ変わる洗礼の要素である水と結びつき、キリストのように水の上を歩きました。
エトルリアの神々への信仰を根絶するのが難しいこの地で、布教を成功させるために、キリスト教は、キリストの女性形という偉大な名前を持たせ、水と関連付けられた女性の聖人の物語をつくり、偉大なエトルリアの女神ウォルトゥムナの役目を受け継がせたのです。
エトルリアの都市国家の数と同じ12人の侍女とともに塔に閉じ込められたクリスティーナが殉教し、多神教の時代が終わり、キリスト教の時代が始まりますが、名前や形を変えながらも、聖なる女性の姿を通して、水への信仰は継承されているのです。
参考文献:
IL TEMPIO DI VOLTUMNA, Giovanni Feo, Stampa Alternativa/Nuovi Equilibri 2009
MISTERI, LEGGENDE E STORIA DEL LAGO DI BOLSENA, Claudio Lattanzi, Intermedia Edizioni 2016
関連記事:
エトルリア12都市連盟の宗教の中心地ヴォルシニイについて