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川の氾濫により何度も破壊されるも、毎回、木造で再建されたバッサーノ・デル・グラッパのシンボル、ヴェッキオ橋

北イタリアのヴェネト州、人口約42000人のバッサーノ・デル・グラッパを横切るブレンタ川にかかる橋は、木造で屋根もついている独特な構造で、町のシンボルとなっており、ヴェッキオ橋と呼ばれています。(フィレンツェの有名なヴェッキオ橋と同じ名前。Vecchioヴェッキオとは古いという意味。)

Palazzo Sturmのテラスからみたブレンタ川とヴェッキオ橋

バッサーノ・デル・グラッパのアンガラーノ地区と中心部を結ぶとても重要なこの地点には、すでに1209年に、橋が架けられていたことが立証されています。しかし、そこから何度も川は氾濫し、何度も橋は破壊され、そしてその度に木造にするか石造りにするかの議論が行われはしますが、毎回、木造で再建されてきました。

1567年の川の氾濫で橋がまた破壊された時に、新しい橋の設計を依頼されたのは、ルネッサンス期の偉大な建築家アンドレア・パッラーディオでした。彼はバッサーノ・デル・グラッパの若い貴族と親交があり、現存しませんが、バッサーノ・デル・グラッパより30kmほど北にあったこの貴族の領地の川に橋を建設したこともありました。

ローマを訪れ、ローマの古代建築を学んだパッラーデイオ。バッサーノ・デル・グラッパのブレンタ川にも頑丈な石造りの橋の建築を町に提案します。実際、その橋の設計図と思われるものが、パッラーディオが書き、後世に多大な影響を与えた「建築四書」に残っています。それは、古代ローマ時代に架けられたリミニにあるアウグストゥスとティベリウスの橋にインスピレーションを受け、自らが設計したテジーナ川にかかる橋のように3つのアーチで成っていました。

古代ローマ時代に架けられたアウグストゥスとティベリウス橋
Di Flying Russian - Opera propria, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=21724477
アンドレア・パッラーディオ設計と考えられているテジーナ川にかかる橋(ヴィチェンツァ県)
Di Hans A. Rosbach - Opera propria, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3823504

しかし、町はその石造りの橋の建設の提案を却下します。「建築四書」にも明確に橋の場所の記載はなく、ある貴族から頼まれたが実現しなかったと示唆されているだけでした。しかし、その設計図は、ブレンタ川の早い流れに対応できるようなしっかりとした石造りで、サイズが一致しているため、バッサーノ・デル・グラッパにかけられる予定の橋のものだったと考えられています。

そして、町は、破壊された橋と同じような木造の橋の設計をパッラーデイオに再び依頼します。町のその異常なまでの伝統的な木造へのこだわりを尊重した建築家は、1569年、木材の弾力性を活かし、以前あった木造の橋を構造的に強化し、洪水の際に流れてくる材木や石に耐えることができ、さらに、視覚的にもインパクトのある橋の設計をしました。このようにして出来上がった木材のみで造られたパッラーディオによる橋は、長さ58m、川の流れに逆らわない三角形の木材の橋脚4本に支えられ、トスカーナ式の列柱に屋根がとりつけられていました。

テッラーリョ広場からみたヴェッキオ橋

その後も、三度、橋は破壊されますが、毎回、パッラーディオの設計を基に木造の橋が再建されています。

パッラーディオの設計で200年破壊を免れたヴェッキオ橋が1748年の洪水で破壊された後の再建で橋の中央両サイドにバルコニーがつけくわえられた。

実は、橋を破壊したのは川の氾濫だけではありませんでした。ヴェッキオ橋は、二度も人の手により故意に破壊されているのです。

一度目は、1813年。当時バッサーノ・デル・グラッパは、ナポレオン1世により設立されたイタリア王国の領地でしたが、オーストリアとの戦争の際に、ナポレオンの養子であり副王であったウジェーヌ・ド・ボアルネにより交通の要衝であったヴェッキオ橋は燃やされました。

この戦いの時に受けた砲撃跡が今でも残る橋の近くの川沿いの建物
1796年9月8日から1797年3月10日までナポレオンが滞在していた家。
バッサーノ・デル・グラッパの中心街にあり現在はお洒落な本屋になっている

第一次世界大戦中は災難を免れますが、当時のイタリア王国の領土であった高原地帯セッテ・コムーニにオーストリア=ハンガリー帝国の軍が侵攻してきたため、たくさんのイタリア軍、特に山岳を専門とする部隊アルピーニがこの橋を渡り戦場に向かいました。この戦いは、41カ月にも渡り、両軍ともに多数の死者が出たことでも有名です。

さらに、第二次世界大戦が終わる直前の1945年の2月、ナチ・ファシストからイタリアを解放するために戦っていたパルチザンにより、ドイツ軍の退却を妨げるため、ヴェッキオ橋は爆破され、損傷を負いました。この時、報復として、ドイツ軍はパルチザン捕虜を3人ヴェッキオ橋の上で銃殺しています。

戦争が終わり、ヴェッキオ橋を再建した労働者の多くは、戦争中にアルピーニに従属していた兵士でした。彼らは、アルピーニであったことに誇りを持っており、橋の再建中もアルピーニのシンボルである黒い羽根のついた山岳帽をかぶっていたため、現在ヴェッキオ橋は、アルピーニ橋とも呼ばれます。

アルピーニは、コーラスを構成し歌を歌うことでも有名です。戦時中でも歌を歌い、故郷を思い、士気を高めていたのでしょう。現在でも、退役兵や兵役でアルピーニに所属していた人達による、シンボルである黒い羽根のついた山岳帽をかぶったコーラスが各地に存在します。

https://www.youtube.com/watch?v=aUHdHVOrhIg

Sul ponte di Bassano / là ci darem la mano  / ed un bacin d'amor…
バッサーノの橋の上で/手を取りないながら/愛のキスをかわしましょう

戦争に赴くアルピーニが、バッサーノの橋の上で恋人と最後の別れをする歌です。

バッサーノ・デル・グラッパのヴェッキオ橋は、陸続きの国境近くに位置し、その歴史は戦争に翻弄されてきたのでした。戦争の形態は変わってきましたが、今後も末永く伝統にこだわった木造のヴェッキオ橋が、破壊されることなく、訪れる人々を魅了することを願います。

ある平和な冬の一日のヴェッキオ橋

ちなみに、現在は、2021年に完了した工事により、完全に劣化していた木製の土台が、水面下の部分のみステンレス鋼の柱に完全に置き換えられています。

そして、バッサーノ・デル・グラッパは、ブドウの搾りかすで作られるイタリアの蒸留酒グラッパの生産地としても有名です。








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Natsuko Tomi
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