「なんだ、彼氏のことか」と言われて
10年前の3月、海辺からどこまでも広がる瓦礫を前に、ただ茫然と立ち尽くした。岩手県陸前高田市は、市街地が壊滅的な被害を受けていた。私自身は神奈川県の出身だ。ただ、あの当時、夫の父、母が暮らしていたのがこの街だった。
義理の父は病院の4階で津波にのまれながらも、なんとか助かることができた。けれども義理の母は、震災から1ヵ月後、川の上流9キロ地点の瓦礫の下から発見された。
震災当時、私たちは婚姻届けを出していなかった。元々「形」にこだわりがなかったため、書類上での「結婚」をするつもりはなかった。ただ、今後も共に生きていくつもりで、すでに一緒に暮らして1年が過ぎようとしていた頃だった。
直後、新聞社などを回り写真掲載の打ち合わせをする中で、「なぜ陸前高田だったのか」を聴かれ事情を話すと、「なんだ、彼氏のことか」という反応をされたことがある。
夫は幼い頃、小児がんで弟を、17歳の時に自殺で姉を亡くしていた。今度は母が震災で亡くなり、失意のどん底にいる夫の父が「家族が増えた」ことを喜んでくれるならと、私たちは震災から4カ月ほどたったころ、婚姻届けを出すことにした。
途端に、そこからの反応は「ああ、義理のお母さん、大変だったね…」という声となり、「なんだ、彼氏のことか」という声をかけられることはなくなった。
それでも、「震災当時はまだ結婚していなかったんですよね?」と、まるで家族のことを語る資格がないかのようなニュアンスで言われたことはあった。
書類上の「正式な夫婦」になれば、悲しむ資格ができるのだろうか。婚姻の手続きを踏めば、悲しみはより深くなるのだろうか。それは「悲しみを図る尺度」になるのだろうか。
今でこそ、「パートナー」という言葉が少しずつ認知されるようになり、婚姻届けを出していようといまいと「伴侶」であるという価値観が当時よりは広がっているように思う。
それでも、「籍」で心の距離まで決められるような価値観は根強く残る。それは、「戸籍の名前が違ったら、家族の絆が壊れる」という、選択的夫婦別姓に反対する声にも通じる価値観なのかもしれない。
先日、丸川珠代・男女共同参画大臣は、「丸川は通称であって、(戸籍上)別姓にしているわけではない」と国会で答えている。
よく選択的夫婦別姓反対の声に「家族の絆が壊れる」というものがある。けれども通称は広く使って「籍」は同じ氏、であれば「家族の絆」は壊れず、「籍」の氏が別姓になると壊れる、ということなのだろうか?
私たちにはそれでもあの時、婚姻届けを出すか出さないか、という選択肢があった。そもそも、日本では同姓婚が法制度化されておらず、そんな選択肢すらない友人たちの声にも触れてきた。
そんな友人たちは、制度の外に置かれてしまうことでの様々な不利益を被っている。同性パートナー同士も公的な婚姻ができる法改正をすべきだと思う。
同時に、婚姻の手続きをしない人々、できない人々が、そうではない人たちよりもパートナー同士の心の結びつきが弱いとは思わない。
あらゆる人に結婚という選択肢があることは権利として大切である一方、書類上の「籍」のみで杓子定規に「絆」を測る、硬直した語りもまた、変えていきたいと思う。