子どもの世話は「与えてる」じゃなくて「返してる」。
こんばんわ、ナツキのパパです。
最近、夜中に何となく目が覚める事が多いのですが、最近は娘がオネショをする事も増えているので、目が覚めたついでに娘を抱っこしてトイレに連れて行ったりします。
すると、娘は抱っこされてトイレに着いてもまだ寝ぼけながらというか、ほぼ寝たままなのですが、パジャマと下着を足首まで下ろして、足首をトントンっと指先で軽く叩くと、すっと足をあげて脱がせやすくしてくれるんですよね。
そして脱がせた後に抱っこして便座に座らせると、自分で手をついて自然とお花を摘みます。。
・・・なんか、凄いなと思う。
足首に加わる刺激での衣服の脱ぎ着とか、体が覚えてる、染み付いた動作、所作の見事さよ。
こんなに小さいのに、日々繰り返す行為に、きちんと覚えて成長もしてて、寝ぼけながらでも行えて。
そして、ふと、想うんだよね。
夜中に抱っこしてトイレに連れて行くのとか、こんな事が出来るのっていつまでかな…って。
きっと、もうすぐ終わる。
なんなら、夜中にビショビショになって気持ち悪さで半分起きて、半泣きしながら伝えてくる娘に起こされたり、眠い目を擦りながらシャワーして着替えさせて、シーツ剥がしてバスタオル使いまくってもう一度寝かせて、その後に洗濯機を回して…とかいうのも、きっと、あと僅かなんだよね。
そう思うと、オネショの後処理も貴重な体験だよな…とか、思えてくるよね。
そして、こんな気持ちになる時、決まって思い出す事もある。
なんか以前にも何かのエントリーで書いた気がするけれど、それはボクが父親になってからようやく気付けた事の1つで、次のようなモノです。
子どもの面倒を見たり、相手してる時に(人によって得意分野が違うから具体的に何をしてる瞬間かは様々だろうけれど)、そこに大変さやしんどさを感じる時って、費やしてる労力に対して相応の見返り(というと言葉が悪いけど)、というか成長だったり感謝だったり笑顔だったり、何かしらの成果というか、労力の対価的なモノを求める気持ちを持ってしまってる事も多いのかなって。
だから、思うようにいかないとか、労力に見合った成果が得られないと、イラっとしちゃったりするのかなって。
だからね、いつからかこう考えるようになった。
物理的なものも、精神的なものも、時間的なものも含めて、子どもに費やすモノはきっと、全部か「与えてる」訳ではなくて、きっと、それよりもずっと先に、自分が親から与えて貰ったものを「返してる」んだよね、って。
そう思うのになってから、色々楽になった。
そう、「与えてる」んじゃなくて「返してる」んだって。
これは親になってから、そして親としての大変さを知ってから、初めて気付けたこと。
子どもへの全ては、与えてる訳じゃなくて、返してる行為かなって。
そう考えたら、結構大変なことでも、「有難かったなぁ」とか「大変だったんだなぁ」とか思えたり、親への感謝の気持ちも改めて強くなるし、子どもへの疲れやしんどさ、時には苛立ちなんかも、ちょっと抑えられるようになるかなって。
また、そうであるならば、子どもへの奉仕は親への理解でもあって、つまり子育ては子どもの為でも勿論あるけれど、同時に親孝行でもあるんだなって思います。
お父さんお母さん、ありがとう。
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追記
前にも同じよなこと書いてたわ…