[小説]『朔の日 歌う月の鳥』⑤
<第五話 六角形の中の三角>
カフェ「朔(ついたち)」は半島にある一軒家カフェだ。メインメニューは季節のキッシュ。今の時期なら白ねぎかな。春菊も面白そうだし、ゆり根とか?ほうれん草は定番すぎるか。ほうれん草と言えば、学園祭で満月が作ったマフィンはおいしかったな。
ドライフルーツを練り込んだパン生地を発酵させる間、こんなふうに思いを巡らせるのが、北海道に住む私、旧姓・澤田花苗(かなえ)の日課だ。
生まれた時から七年前まで住んでいた町はまだ秋。こちらでは初雪が降り、紅葉も終わっている。
「おい、手が止まってるぞ」
いけない、いけない、シェフの機嫌が悪くなってしまう。今日はランチ予約が開店と同時に三組入っているんだから、しっかりしなくては。
新千歳空港から一時間ほど車を走らせた場所にある雪のギャラリーカフェ「RIKKA」は、調理製菓専門学校で同期だった利律(りつ)君が開いた店だ。
六角形の建物は、一階がビストロで、テラスへつながる渡り廊下がギャラリーで作家作品を展示販売している。二階部分は住居スペースで、私は利律君を身一つで追いかけてきて、「勝手に棲みついた野生動物か」と、寝床を与えてもらった。
同じく同期で、わずか半年で学校を辞めざるをえなかった夏海から、わざわざ電話で「軽蔑する」と言われたことは、納得できていない。冷たい声のそばに赤ちゃんのかわいい声がした。幸せな場所にいる夏海こそ、私の気持ちがわかるはずなのに。私はただ好きな人の一番近くで生きたかったのだ。
高校卒業後、五年間働いてお金を貯めてから入学してきた利津君は、その時点でかつておじいさんの店だった「六鹿」を再開する目標を持っていた。
入学式で夏海に一目惚れした日々君の話は有名だったけど、実は私も利津君に一目惚れしていた。ただし、顔じゃなくて名前に。
雪の結晶が大好きな私に「六鹿」という苗字は輝いていた。「りっか」とルビを振りたいほどに(実際はむつしかと読む)。もし自分がこの人と結婚したら「六鹿花苗」だから、それこそ「六花」になれるじゃないか。
でもお店の名前である「六鹿」を、「RIKKA」にしたらと勧めたのは、残念なことに当時の利律君の恋人、満月だった。店の写真を利律君が見せた時に、六角形の家を見て言ったのだ。私が先に見せてもらっていたら、同じことを言ったはずなのに。
いつも利律君の周りをうろうろする私と違って、満月は静かにそばにいた。私は妹のようなポジションに自らを納めて堂々とふざけたり、ふれたり、時にはふたりだけでご飯を食べにゆく権利を得ていた。私だけにわかる彼の何かを探して、ふたりだけにわかる秘密を作りたかった。結局、距離を思い知るばかりだったけれど。
「わーっ、ステキ」
店に入ったとたん、声を上げる女の子達。雪の結晶オブジェが店内のあちこちに飾られて、料理提供まで飽きることなく眺められるこの空間は、私のコレクション展のようなものだ。作家さんによって雰囲気を変えるギャラリーとは一線を画す、白と銀の世界。
光が舞う店内で利津君にプロポーズされたのは、棲みついて五年経った頃。それと同時に店名が「RIKKA」になった。
「お前も満月も、この六角形の店から雪を思い浮かべたけど、じいちゃんは雪のつもりじゃなかったんだ」付け替えた看板を見上げて利津君が言った。
「黒いダイヤを模したんだ。当時、石炭産業が最盛期だったから」
「え、じゃあRIKKAにしてしまっていいの」
私は不安になった。名付け親の満月を思って?
「いいさ、だってお前の名前じゃん」
出逢って八年、やっと幸せな涙があふれた。
この町の四季折々の風景を、満月にポストカードで送り始めたのはどうしてだろう。利津君から叱られたり、彼が仕事の悩みを抱え込んでいる時に、満月ならどう接するのかなと思う。代役なんかじゃないと胸を張りたいのに、利津君が満月を見る笑顔が、あの静かな光景がどうしても忘れられない。満月から心が離せず、「ようやく春が訪れました」とかほんのひとことだけ添えていた。
今回の葉書は「RIKKA」になって初めてで、しかも店のDMだから、字が震えてしまう。満月なら気づくだろう。苗字がひとつで、連名になっている意味を。
☆ ☆ ☆
俺は子どもが苦手だ。そう言うだけで人として欠けているジャッジをくだされるのだがかまわない。
満月は出逢った時から静かな空気をまとっていて、一緒にいても侵食されない感じにどんどん惹かれていった。いつもついてくるちっこい奴は、やたらとにぎやかだけど、いないものと扱っても気にしていないようだし、何より満月がそいつといるとよく笑う。それでなんとなく俺達はよく三人で過ごした。だから今も二人でいることに違和感がある。しかもいないのは満月だ。
あいつの店がオープンしたのはいつだっけ。ひとりでやっていると花苗は言っていたけど、本当にそうだろうか。そもそも俺達が別れるきっかけになったカナタは今、何歳になったんだ。
軽やかな鈴が鳴って客が入ってきた。花苗を目で探すと、ガラス越しに花壇を世話する姿が見えて、しかたなく自分が出ることにした。
「満月・・・」
天井や壁をゆるり見渡し、キラキラ光る雪の結晶に「綺麗だね」と微笑む、その静けさは本当に満月だ。
「どうして」言いかけた俺に、満月はバッグの外ポケットからDMを出した。
「結婚おめ・・・」満月の言葉を聞き取れなかったのは、ものすごい勢いで突進してきた花苗のせいだ。
「みつきみつきみつきぃぃぃ」
大泣きの妻と、満月の抱擁を、温かく見ていたかったが、その妻は軍手をしたまま外から飛び込んできたため、土を店内にまき散らすというとんでもないことをやらかしていた。
「相変わらずね、花苗」
三人でホールの清掃をしたあと、予約客ゼロのくやしい店内を存分に見学してもらった。まかないに豚肉のしょうが焼きを出すと、花苗がいつものように紅ショウガを山盛りに乗せて食べ始めた。たちまち花苗の頬はリスのようにぱんぱんになる。それを見て満月が笑う。あの頃のように。
「昨日、二階から水漏れがしてね、修理業者が入ることになったんだけど、大家さんが立ち会ってくれるというから、日帰りで来ちゃった」
「日帰り!?」思わず、声がひっくり返る。
「うん、だからもう帰らないと。空港から二時間以上かかると思わなかったの。一時間っていうのは車で行く場合なのね」
「せっかく来たんだから、せめて一泊しろよ。ほらこのワイン。近くにいいワイナリーがあってさ、そこを案内してやるよ」
「うーん、でも一泊となると・・・」目を伏せる満月に「あ、カナタか!」と言うと満月が驚いた。
「名前、憶えていたんだ」そして今日一番の笑顔を見せた。どきっとする。花苗は黙々と食べている。
「そりゃ、だって・・・大きくなっただろうな」
「小学生だからね。でもカナタは私の実家で暮らしてる。父も母も五十代だからまだ大丈夫」
満月は、豚肉でご飯をくるんと巻いて口に入れた。そうそう、これがこいつの食い方。・・・って、カナタとは暮らしていないだと?じゃあなぜ俺達は別れたんだ。
「猫が待っているから気になって」
「猫?」
「そう。いい子でね、こう、カフェと休憩室を仕切る壁の水槽にいてね」
「いいなあ、猫カフェ」ようやく花苗が会話に加わる。
「正確には猫カフェではないんだけど」
「いや、とにかく猫なんか一晩くらいほっておいてもいい生き物だろ。泊まれよ」
満月は、視線をスッと外した。あ、いかん。これは「わからないならいいです」モードだ。満月は俺を見ずに、花苗にバッグから取り出した箱を渡した。
「あらためて、結婚おめでとう」
開けるとスノードームのオルゴールが入っていた。見たことのないデザインで、こまやかな雪の結晶が降り注ぐ。
「きれい・・・」花苗の目からみるみるうちに涙がこぼれた。
「頑張って作ったの。工作大好き君に協力してもらってね」
満月がちょっとドヤ顔をする。工作大好き”君”って誰だよ。
そのあと出されたご祝儀袋は、気持ちだけでいいと遠慮したが、そのご祝儀袋も雪の結晶柄の布で、満月が作ったものだと言うので受け取らざるを得なかった。
頑固さは変わらず、夕方の便でどうしても帰るという。せめてここから車で空港まで送らせろと言ったものの、店のことがあり運転は花苗に任せるしかなかった。
くそう、もっと、もっと話したいことがあったのに。
☆ ☆ ☆
「利津君、くやしがっていたね。自分が送りたかったんだよ」
「そう?」
店を出てからカーラジオが聴こえないほど私達は話しまくった。八割方、私が話していたけど。
「私のこと、怒っている?」空港の駐車場に停めてから、ようやく聞けた。
満月はチラ、と時間を確認して首をゆっくり横に振る。
「そこに守りたい命があった。利津よりも。ただそれだけ。花苗は彼がひとりになってから追いかけただけなのに、どうして私が怒ると思うの」
満月の淡々とした声になぜか傷ついた。ふたりが別れる理由に、自分の存在があってほしかったのだと今、気づく。
満月と利津君の出逢いからさよならまでの間、私はとことん部外者だった。なのに罪悪感を持つことは、満月の選択に失礼だ。
「もう、行くね。送ってくれてありがとう」
満月の後ろ姿が、ターミナルに吸い込まれても、私はまだ発進できなかった。
今日は、あの頃のようにいっぱい傷ついてしまった。一生懸命、満月を引き留める姿に、コックコートの人間しか入れないと決めている厨房に、遠慮する満月を入れたことに、何より優しい眼差しに、ふたりだけの何かを感じてしまった。
でも、いい。今、ギャラリーで展示しているグラスは、アイスクラックという技法で出来たものだ。光にかざすと無数のひび割れが美しく輝く。
私はこれからも勝手に傷つくだろう。でもそのひびを含めて私なのだ。
「さ、キラキラした私の城へ帰りますか」
私は大好きな六角形を目指して、走り始めた。
<第五話 完>