[エッセイ]『境界の草原』
「境界の草原」
死んだはずの母が生きていた。
正確には、いつのまにか部屋で寝ている。
母が死んだのはいつだったか。
生きている方がつらそうな母が、
動けない体から解放されたあの日、
悲しみとは違う涙が出たように思う。
眠る母を見下ろしていると、
姉がやってきて「かわいそうに。洗ってあげなくちゃ」と
母を抱き起こした。
乾いた泥にまみれた体は、ところどころヒビが入っている。
姉は母をそのまま湯船に入れると栓を抜き、
お湯を出しながら撫でるように泥を落とし始めた。
どれだけその不思議な光景を見ていただろう。
気がつくと、母はテーブルの向こうに座っていた。
目をずっと閉じたままで、
母がようやく口を開く。
「こっちに来ない?」
「え・・・」
見渡すとあたり一面に色とりどりの花が咲いている。
姉はどこにもいない。
ようやくわかる。
やはり母は死んでいるのだ。
あちら側の人なのだ。
わたしが、踏み入れていたのだ。この境界に。
「こっちに来たら?」
その声は、病気で話すこともままならなくなった声ではなく、
遠い昔に聞いた母の声だった。
「お母さん・・・」
「お母さん・・・」
「お母さん・・・」
呼びかけても、母の表情は動かない。
「お母さん、ごめん。わたし、そっちに行けない。
まだやりたいことがある。そっちに行けない。ごめん」
自分の口から出る言葉に驚きながら、
一気にまくしたてると、
母のまぶたがゆっくり開いた。
「やっと、言えたね」
優しく懐かしい笑顔だった。
目覚めると、
昨夜消えてしまいたいと思い、
泣きながら眠った自分を抱きしめたくなった。
やりたいこと、あったんだ。
夢の中で死ぬことを拒否した自分に教えられた。
この体で、この心で、そうだ、わたしは。