natsuki
寓話、詩、短文
身体を使わなければなまってしまうように こころも、使わなければなまってしまう。 と言うか、発達しない。 こころを使うとは、、 こころの作用をよく使うこと。 湧きあがる感情をちゃんと味わうということ。 味わうということは 起こった感情を肯定している ということだし それを起こしたと思われる自分を肯定することでもある。 感じたことを(誰におんぶしてもらうわけでなく) 自分で感じられる、抱えられると こころはブンブンと作動し そうして動いた分、筋肉はついていく。 身体とおな
(2023.09.10) 台風(だったのかどうか?)のあとの朝 しんと涼しくて 汗もかいていないから 入ったものかどうか? と思いながらも お風呂に入った。 ひねったシャワーのお湯が 温かくからだに沁みる、、 あったか!とひとりごとを言ったら そのじわっとした気持ちよさが アップしたから あ、と思いながら また何度も あったか、、、と言ってみることでした。 言葉にすることで その感覚は、増すんだなー。 だとしたら 親というのはほんとうに、 この世界を紹介する重大な任務
昼までは台風のような嵐、 午後からは むわむわとした晴れ。 トコトコと眼医者さんへ向かって歩いていく道すがら 道端の、雑草から咲く小さな紫の花が 勢いよく陽の光を浴びているのを見た。 命のぴかぴかだなあ! と同時にいま いまにも人生を終えていきそうな具合になり わたしたちが明日にでも 遠い山あいの施設まで 新幹線に乗って ひと目会いにいこうとしている 子どもたちのお祖母ちゃん、わたしの義母のことを思って どんと暗い気持ちになった。 でも どうだろうか。 こうやって勢
こころとは その人のたったひとつのお洋服のようなものだと思う。 日々、手入れをする。 手入れすればするほど強く、しなやかに、柔らかくなる。 放っておいて、穴だらけ、汚れだらけになれば 着ている身体も傷んでいく。
音楽(おもにピアノ)のお教室を主宰しています。 発表演奏会のあと お寄せいただく親御さんのお声には はっとさせられることが多い。 音楽をだいじな友だちにすることができたら という思いが 程度の差こそあれ どの親御さんにも共通しているように思われる。 なかには わたしたち(ご両親)があちらの世界にいっても彼女(お嬢さん)が淋しくないように とか かたわらにピアノがあるだけできっと心を豊かにしてくれると信じている といった言葉もあって 心打たれる。 わたしは、というと お
わたしは小さな豆粒のような大きさなので 眺められる範囲というのも 限られていて すぐ先の風景は見えるけれど 霧の向こうになにがあるかは 近づかないと見えない。 だから いままでずっと 見えていなかったが しかし どうもこの旅では わたしは いくつかの島を順に歩くことになっていたらしかった。 なにしろ はっと気づいたときにはもう 旅は始まっていたから 旅の行程なんて 知る由もなかったのだ。 ただ行く先々にはいろいろなことがある ということは 漠然とわかっていた。 ある日わ
男は 仕事を変えることにした。 理由は 特にない。 理由と言えるような 理由はなかった。 これまでの仕事のことは とても大事に思っている。 なにかを変えるとき なにかをやめるとき 理由はいるのかどうか? しかし男は はっきりと 変わりたかった。 だれにも それを説明できないのだった。
一日に昼と夜があるように この世界に光と闇があるように 人にも 祝福されているところと 膿みのようなところとが あるのなら その 夜、闇、膿み、に 立ち向かったり それらを どうにかしようとしてはいけない と 昼と夜の境目のような時間が ぼくに 語りかける
マティスは、すべての線がむくむくしている。人間のからだも、花びらも、自身のパイプから燻る煙まで、、、それをみていると、心の深いところに、なにかがむくむくと湧いてくる、、太陽の力、生命力、よろこび、を思う。 そして、すべての色彩が、どれも、いい、、しけた色がひとっつも、ない、、ほれぼれする。あたまのなかでシュワーっと炭酸がはじけていくよう。 (2023.5.20)
小さな、書き換えの話。 小学校1年生のとき クラス全員がひとりひとつずつ じぶんの鉢で朝顔を育てていました。 いまの小学生と同じように、、 担任の先生にマジックで大きく それぞれの名前を書いてもらった プラスチックの青い鉢が 校門を入ってすぐのテラスに ざーっときれいに並んでいた。 双葉が出てきた、とか それがどんな風に、が いちいち大事件だったような気がする。 わたしだけでなく おそらくみんなが興奮しながら 登校するたび 鉢のなかに一喜一憂していました。 ある朝 学
ふと思い立って 映画「ペイ・フォワード」を観ました。 世界を変えるためになにができるか? という学校での課題に 中学生のトレバーは じぶんが誰か3人の人に よいことをする、 そしてその3人がまたそれぞれ 3人によいことをする、 その人たちもまた、、 そうして世界を変えていく というアイデアを 思いつく。 彼はさっそく 近くの麻薬中毒の大人に ごはんやシャワーやお金を提供して 仕事ができるようサポートしたり し始めます。 そうしてその男が薬に手を出さないようになるか
「怖れを捨てて信じるのよ」 「どうやったらわかるの? その人が信じられる人って?」 「、、ただ信じるのよ」 映画「ジョジョラビット」での ジョジョのすてきなママと、ある女の子との会話。 あっ、と思ったのだけど なにしろあっ、で、その前のQがどんなものだったか、、 忘れてしまいました。 大人の女の人になるとは? のくだりのなかで。 これは宝石みたいな台詞だと思う。 ----- ジョジョのママはいつも ジョジョの靴ひもがほどけていると言っては ていねいに靴ひもを結んでく
この数年のいろいろ を通じて ほぼほぼ確信していること、は たいへんなことは恵みなのだ ということ、、 自身の、身近な人の、病気、怪我、 うまくいかない関係、 暗礁に乗り上げた計画、 どれもが そのさなかに わたしに愛をおくり わたしに温まる関係をもたらし わたしに在りかたというものを示唆し 前を向くことの素晴らしさの実感をくれた、、、 たいへんなことを克服することで強さがついてきた、 面の皮が厚くなった、 みたいなことではない気がする。 その「こと」「事態」に正面から
曲を自分のものにしていくとき、 程度はともかく、いくぶんかであっても、 その曲になっていく、というプロセスが起こる。 そして、いくぶんかであっても、 そのプロセスのさなかに湧いてしかたない 曲を弾きたいという気持ち、、 お風呂に入っていても、 早く出て弾きたいし、 キャンセルできるなら、 どんなことでもキャンセルして弾きたい。 そのどうしようもない衝動、 たぶん、それはチャンスなのだと思う。 なんの? 音楽に素手でさわる、、 走っていく動物にさわりたかったら ぼんやり座