ムラタナツキのこれまでのアレコレ。
1989年9月2日 千葉県市川市産まれ
2歳半くらいで茨城県にある母の実家に引っ越し。
理由は父の他界。病死だったらしい。あまり詳しくは知らず、命日もよくわかってない。お墓詣りは千葉の方まで年に数回行く。
以降、母子家庭で育つ。兄弟は2歳上の兄が1人。仲は良くも悪くもなく。物心ついた時に父はいなかったので父親というものが何なのかあまりわからない。
父と母はともに芸術大学卒業で、父は某企業の商品デザインをする人。サラリーマン。
母は専業主婦だったが、死別をきっかけに引越した茨城の中高で美術の教師に。今に至るまで再婚せず。ちなみにムラタは父方の姓。
幼少期〜小学生
母が働いていたので保育園に預けられていた。が、祖父母が農家で家にいたので祖父母と過ごすことも多かった。田舎だったので用水路でザリガニ取ってみたり、田んぼに落ちてみたり。捨てられていたワンコを引取り飼っていたり。
小学校3年までは祖父母と同居し、それ以降は祖父母の家のすぐ隣に母が家を買ったのでその家に母、兄、私の三人ぐらし。
わりと旅行や、都内の美術館やら博物館に連れて行ってもらっていた。だいたいが母や父の友人と一緒で、大人に囲まれて過ごすことが多かった。
幼稚園から小学校の間は水泳を習っていて唯一、人並みにできるスポーツが水泳。
他は全くの無能。ボールを奇想天外な方向に飛ばすのが得意。
その他、書道とピアノを習っていた。書道は小学校卒業、ピアノは中学卒業まで続けた。
中学生〜高校生
中学校は地元の公立で、吹奏楽部でフルートを担当。フルートを選んだのはすぐに音が出たのと、持ち歩きが軽くていいと思ったから。
なぜか成績は3年間ほぼ学年トップだった。週に90分の塾と授業以外はとくに勉強した記憶はないので、たぶん勉強中は謎の集中力を発揮していた。
部活でお揃いのウィンドブレーカーを頼むのに、みんなが選んだ色がどうしても気に入らず、私だけ色違いにしたりしていた。
部活で暇な時ドラムをやっていたら、学祭の時友達に誘われてバンドのドラムをやったりした。楽しかったけどそんなにハマらず。
高校は千葉県にある公立で、理数科へ。
勉強はわりと好きだったが、世界史や地理、国語系はもはや睡眠時間か漫画を読む時間だった。これらはあまり好きではなく、数学や理科系の方が好き。歴史は漫画やテレビでみると面白いのに授業は子守唄。
部活は茶道部。副部長をしていた。母が茶道を習っていた影響と、田舎すぎて電車が1時間に1本しかなく、帰りの電車までの時間つぶしの意味もあったが、着物を着るのも抹茶を点てて飲むのも、和菓子も好き。
そして唯一部室にエアコンがある部活で、夏も冬も快適な放課後ライフを過ごした。
大学受験〜大学生活
もともと美容師になりたいと思っていたが、大学生っておもしろそうだと、なんとなく思っていたので、大学は受験することにした。落ちたら美容専門に行くつもりだったので、公立1校のみ受験することに。
これまたなんとなく、横浜に住みたいと思って横浜の大学を探して、横浜国立大のオープンキャンパスに行くが、やたらと坂登った山の上で、キャンパスもめちゃ広くてここに4年間通うのは無理だ、と候補から除外。
たまたまオープンキャンパスの日程が近くて見に行った横浜市立大学が、平地だし駅から近いしキャンパスもいい感じに狭くて気に入り、こっちに決定。
とりあえずセンターで配点が高い英語が満点ちかく取れたら最低限の勉強で受かる。と考え、やたらと英語を勉強した。3年の春の時点で模試で200点中80点台だった英語が本番では198点取れ、受かった。受験は戦略が大事だなと思った。
ちなみに
国際経営科学部国際経営科学科国際経営コース
という、呪文みたいな名前の学部だった。
晴れて大学生になったわけだが…ほぼバイトしていた。普通の飲食業だったが性に合っていたのか楽しかった。最大3つ掛け持ちしていた時期があって、今より稼いでたぐらい。
サークルはテニスと、同期だけで集まったサークルとは名ばかりの集まり。
テニスサークルでは一応副会長をしていた。基本的にトップに立つよりその隣の方が落ち着きます。
週1でテニスをし旅行や合宿に行ったりスノボいったり楽しく過ごした。
単位もほぼ問題なくとっていたし、ゼミもその先生の授業が好きという理由で何も考えず受けたら、希望のゼミに入れた。経営戦略論のゼミだった。
何故か最も仲良くなった友人は、サークルもゼミも一緒ではなく、たまたま1年次の教養系の授業で隣りに座った人たち。今でも仲は良い。
3年になりまわりが就活する中、当然、就活を勧められたが美容師になる気でいたし内定出ても蹴るだけだからと、引き続きバイトしたり進学の準備したり卒論書いたり。ちなみに、あのリクルートスーツ、黒パンプス、ひとつ結び、前髪ピシッみたいな格好をしたくなかったのと、髪を黒くするのが嫌だったのも理由の一つ。
単位もなんとかとり終え、卒論も間に合い卒業できた。
卒論は、美容室の大規模なチェーン化とフランチャイズ化戦略についてみたいなやつだった気がする。
美容専門〜就職
2012年〜2014年
2年間美容専門に通い、美容師免許取得。
2014年〜2016年
新卒で入ったのは、吉祥寺の個人店。オーナーも先輩も優しく働きやすかったが、金銭面では奨学金の返済もあったので生活は厳しかった。学生時代バイトしてたお店で美容室での仕事後の深夜だけ働いてたが、体力的にキツくなり、一時期、美容師を辞めることを考えて転職活動をしたが、いろいろな業種を調べてもあまり興味が湧かず、結局、美容師は続けたいと思い、美容室を変えた。
2016年〜2017年
都内の仙川の個人店勤務。手取りは増え金銭的には少し楽になったが、次はオーナーと反りが合わず1年で辞めた。事前に相談していたが、結果的には、「もう無理だから今日辞めさせてくれ」と、ほぼ喧嘩して辞めた。
この2店舗目に勤めてしばらくした頃、毎日、店の人かお客さんとしか話していないことに気づき、これはまずいと思い、美容師の交流会などに参加し始め、結果的にオンラインサロンにはいり、様々な人に会うようになった。
高円寺あたりに飲みに行くようになったのもこの頃から。今シェアハウスに住んでいるのも、この時に出会った人がきっかけ。
2017年7月〜現在のサロンに勤務。
2店舗目を辞めた時期には、オンラインサロンで出会った今のお店のオーナーにお世話になっていてそのまま拾ってもらった。わりと自由にさせてもらえている。ありがたい。
自由にさせてもらえているおかげで、
2018年からはシェアハウス生活のスタートと同時に自身の住むシェアハウス東京未来人アジトの管理人をし、
夏ごろから美容ボランティアのワールドシザーズの活動にも参加している。
近所の飲食店で激辛メニューを提供するイベントなどもしていたりする。