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花と暮らすということ

その昔、祖母は自宅で活け花教室を開いていた。
草月流の師範資格を持っており、家には雅号が入った額が飾られている。

まだ活け花が「花嫁修業」としてギリギリ認識されていた頃。
子供だった私は、毎週自宅に訪れる20代のお姉さんたちを、ドキドキしながらそっと2階の踊り場から覗いていた。

時代が変わり、活け花を習おうとする若い女性が減ってきたのを機に祖母は教室を閉める。
そして私に言ったのだ。

「凛ちゃんもお花やってみる?」

かくして祖母は私だけの先生になった。




毎週金曜日。
学校から帰ってくると祖母が花材とテキストを用意して待っていてくれる。

向かい合わせに正座し「よろしくお願いします」と挨拶をすると、祖母も「よろしくお願いします。ではテキストの12ページを開いてください」と先生の顔になった。

活け花には流派があり、草月流は割と自由なスタイルで知られている。
が、最初はまず「花型法」から学ばなくてはならない。
基本立真型から始まり、第一応用立真型、第二応用傾真型などを座学と実習で覚えるのだ。
この基本型を覚えることで、一見自由に見えるスタイルにもバランスと調和が生まれる。

基礎をみっちりと叩き込まれた頃、祖母が笑顔でこう言った。

「今日は凛ちゃんの自由に活けてみて」

ようやく自分の自由に活けることが許されたのだ。
ところが剣山の入った花器を前にして、私は何も活けることが出来なかった。

当時中学生になったばかりの私は、様々な家庭環境の事情で「自由」を知らなかったのだ。
「こうしなさい」と言われれば上手に出来たが「自由にして」と言われるとどうしていいか分からない。

結局その日から私は活け花をやめた。




大人になってからも私は花と距離を置いていた。
何かの折りに触れお祝いのお花を頂くこともあったし、それはもちろん嬉しかったけれど特別な意味合いを持って受け取ったことはない。

そんな私が今年の春、花屋へ足を向けた。
Level4の恋が終焉を迎え、毎日毎日死ぬほど酒を飲んで、それでも私には自死の自由すら与えられていない状況下に絶望していた頃のことだ。
noteで複数のフォロワーさんがお花の写真をアップしており、何となく「お花が見たい」と思った。

店頭に並ぶお花は綺麗で、しかし買うことを躊躇する。
切り花を買ったらその世話をしなければならない。

買った花をポンと花瓶に差し、枯れたら捨てて差し替えるというスタイルの人もいるだろう。
が、なまじ切り花の扱いを学んでしまった人間にとって、花を買うということはその後の花の一生を背負う行為だと感じてしまうのだ。

逡巡しながら店内を彷徨うろついていると「シュシュ・フルール」という商品が目に飛び込んできた。

日比谷花壇

栄養剤入りのゼリーが器に入っているミニブーケで、水換えの必要もない。
これだ、と思って購入した。

毎朝花の香りを嗅ぎ、枯れ始めた花があればブーケを解いて抜き、新しく束ねて差す。
月に一度、新しく花を買い替えては同じ作業を繰り返した。
これが私の心にとってのリハビリ。




つい先日のこと。
用事で立ち寄った街で、いつもとは違う花屋に入った。
そこには栄養ゼリー入りのブーケは無く、別の店に行こうかなと思い始めていた時。

とても綺麗な青い花に魅入られた。
それは切り花で、買って帰れば世話をしなくてはならない。
私にそれが出来るだろうか。
心の裡に問いかけた。

ねぇ、大丈夫?
うん、今ならきっと大丈夫。

思い切ってその青いガーベラを手に取った。
それからルリトウワタにユーフォルビア、不思議な色合いのカーネーション。
これだけじゃちょっと寂しいからカスミソウも足しておこうか。

お花をセロファンで包んでもらうなんて何年ぶりだろう。
ワクワクよりも不安のほうが大きかった。

家に帰って、まず埃を被っていた花瓶を洗って綺麗に拭う。
桶に水を張り、包装とセロファンを剥がした花材を漬けた。
花材を買ってきたら、まず水揚げをしなくてはならない。

押し入れから花材鋏を発掘し、水の中で茎の先端を斜めにバチンと断ち切っていく。
水中で切ることにより、茎の断面が空気に触れずにしっかり水を吸い上げることができるのだ。

花瓶に花屋で貰った栄養剤を入れ、水を5cmほど注ぐ。
水が多すぎると腐敗が進みやすいから、毎日見てあげられるなら少なめのほうが良い。

充分に新しい水を吸った花材たちを花瓶に入れる。
といっても剣山があるわけではないので、場所を固定することは出来ない。
右側に置こうとしても左にプイとそっぽを向いてしまう花もいる。

あなたはそっちに行きたいんだね。
オーケー。
そこで咲けば良いよ。

花瓶に入れる花は、活け花と違って個性がある。
私はそれぞれの花の咲きたい場所の気持ちを汲んであげ、ちょうど良い塩梅にしてやるだけだ。
どうも私は自己のセンスよりも、それぞれの咲き方の場所を提案するほうが性に合っているらしい。




花は人生に必須のものではない。
花がなくても人は生きていけるし、何なら邪魔だと思う人もいるだろう。

けれど花から、ほんの少しの慰めをもらう時というのはある。
入院してしまった時とか。
退職祝いの時とか。
心にヒビが入っている時とか。

私は花で自己を表現することは出来ない人間なので、もう活け花はやらないと思うけれど。
毎朝花の水を変え、茎のぬめりを落として水揚げし、それぞれの好きなように咲かせてあげることは続けたい。

ようやく元彼のLINEを消した。
そろそろ私も別の場所で咲かないと。



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