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「料理は愛情」の正体

昭和から平成にかけて放送された「夕食ばんざい」というTV番組がある。
料理研究家の結城貢ゆうきすすむ先生が料理を教えてくれる内容なのだが、先生はキャッチフレーズとして「料理は愛情」という言葉を使っていた。

さて令和の現在。
共働き世帯の増加や、パンデミックで自炊を余儀なくされた現代人にとって、料理は貴重な時間を奪われる面倒な家事のひとつになった。

時代に反するようにも思える「料理は愛情」について解説してみる。



下拵えという愛情

結論から言うと「料理は愛情」の意味とは、気持ちを込めたかどうか、などという精神論ではない。

下拵えの丁寧さを褒めた言葉なのだ。

もやしのひげ根を一本一本折り取る。
じゃがいもや人参の面取りをする。
鶏もも肉の黄色い脂肪や筋を包丁で取り除く。
魚の切り身から骨抜きを使って小骨を一本ずつ抜いておく。

こうした作業は途方も無く面倒なので、愛情でも無ければやっていられない。
だからあなたは愛する人の為を思って頑張って作ったんだね
と、こういうことなのだ。

下拵えを丁寧にしてある料理は、まず見栄えが良い。
材料の大きさや厚みが揃っているため火の通りも均一で、ムラが無いのだ。
そして煮崩れや焦げも無いので口当たりが良く、きちんと食材に味が「入っている」。

自分の時間を割いてでも、相手に美味しい料理を作りたい。
言い換えれば相手の料理の為に自分の時間を惜しげもなく使ったのだ。

これを愛情と言わずして何と言おう。



時短料理に愛はないのか

私の妹はシングルマザーなので、働きながら実家で二人の子供を育てている。

仕事終わりにスーパーで買い物をして大抵18時頃に家へ帰り、そこから夕飯の支度だ。
これがもうめちゃくちゃ素早い

炊飯器にお米をセットして早炊きで30分。
この間に2品ほどのおかず+汁物を次々と作り上げるのだ。

たまたま実家に行った際に手伝おうとしたところ「凛ちゃん、座ってていいよ!ホント、うん!邪魔とかじゃないけど!子供見てて!」と追い出されてしまった…。
多分彼女なりの時短オペレーションが決まっているのだろう。

そうして出来上がった料理を、子供達は待ってましたとばかりにモッシャモッシャと夢中になって食べ尽くす。

「おいしい!」
「ママ、これ好き!」

先に説明した通り、「料理は愛情」は下拵えの丁寧さを表した言葉なので、「愛情の込もった料理」とイコールの関係ではない。

仕事や家事で忙しい中、お母さんやお父さんが貴重な時間を割いて作ってくれた料理に愛が込もっていないはずがないのだ。



究極の時短料理

冷凍食品ジャーナリストの山本純子さんをご存知だろうか。

彼女は自分の娘をほぼ冷凍食品のみの食事で育て上げた人物だ。

「添加物や素材の安全性が気になる」という人達に、「冷凍食品がいかに美味しく効率良く栄養を摂取できる物であるか」を、山本さんは健康に育った娘で証明してみせた。

スーパーで作られるお惣菜や工場で作られる冷凍食品は、それ自体には愛情が込もっていないかもしれない。
けれど食品のメニュー開発や、美味しさを追求する企業の愛は込められている。

「美味しいものを食べさせたい」という気持ちの表現方法はひとつではない。
何時間もかけて煮込んだ手作りシチューも、企業が長年研究を重ねて作り出したレトルトのシチューも、愛情の方向性は同じなのではないか。



「誰が作ったか」ではなく「誰と食べるか」

「おふくろの味」という言葉がある。
母親の手作り料理は唯一無二であるが、おそらくこの言葉もそのうち死語となるだろう。

でもそれでいい。
現代においては「うちの味」という表現が正しいように思う。

お母さんが作ってもお父さんが作ってもいいし、なんなら冷凍食品だっていいのだ。
大切なのは誰が作ったかではなく誰と食べるかだ。

どんなに丁寧に下拵えされた手作り料理も、ひとりで食べるのはやっぱり寂しい。
誰が作ったご飯だとしても、誰かと一緒に「おいしいね」と言いながら食べる料理が一番贅沢で愛を感じられる気がするのだ。

外食のレポを頻繁に書いている私だが、パンデミックや地震の影響でここ数ヶ月夫と会えていない。
料理は好きなので家で色々と作りはする。
けれど、たったひとりで食べるご飯のなんと味気ないことか。

誰もが何の気兼ねもなく、実家や地元に帰り、家族や友達と一緒にご飯が食べられる日が来るのを願って。


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