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noteを始めた理由。わたしたちは存在が愛である

8月8日にインスタのアカウントとアプリを消そうと直感し、翌日に実行してからもうすぐ2か月。そこで得られた繋がりや喜びは大きく、意義を強く感じていたけれど、長年心の奥底にほのかにあった“SNSをしない人かっこいい“という思いを急に実行する流れに乗ってみた。

思った通り、何も悪いようにはならなかった。
アカウントを消す前日のストーリーで、繋がってくれるという人とはLINE交換ができたし、LINE交換をしなくても、繋がるべき人には何らかの方法で繋がることになると、私は信じている。インスタでの最後のメッセージのやり取りでは、今までの私の発信から感じたことを伝えてくれたり、私がインスタをやめるということから自身の内面について新しい気づきがあったと伝えてくれる人もいて、もうそれだけで、インスタをやめることの価値を十分感じていた。

LINE交換してくれた人の1人からは、こんなメッセージをいただいた。『なっちゃんがこの地球のどこかで存在してくれているということだけで、なんか安心するし心強いよ』

内容や濃さに変化はあれど、今まで9年ほど続けてきたからこそかもしれない。それでも、私がこれからインスタで発信することをやめても、私の存在自体をそう思ってくれている人がいて、こうして伝えてくれることの喜びは、言葉にできないほどだった。

私は、私が“自分の存在自体が愛である“と潜在意識レベルで信じているから、現実がそのメッセージを通して見せてくれたな、と直感した。

国籍、性別、年齢、外見、肩書き、収入、持ち物、過去の功績、今行っていること、言ったこと、書いたこと、性質、健康状態など、これらとは全く関係なく、ただ、存在の本質が、愛であると。

それはもちろん自分や旦那さん、子どもたちだけでなく、他人や動植物などの命あるもの、命ないもの、この世界という“これ”そのものが愛なのだと。今が不完全であったとしても、それが完璧なのだと。

これが、今世の私の人生ストーリーの正解であって、何が起きても、もし人に予想外のことを言われて傷ついたとしても、それすらも愛だという証拠にすると決めている。

だから、どんな人であっても、何かをやっていてもやっていなくても、すべて自由であり、それはその人のその時の完璧なのだ。

こういう信念から、誰にも何も伝えることはない、と以前から薄々と感じていた。

そんな中で私にとって唯一発信する場所だったインスタを手放し、色々な気づきや暮らしの変化があったのだけど、しばらく経ち、何となくnoteが気になり、何となく自分でも書いてみたくなり、結局懲りずにこうして1000文字以上書いている。

やっぱり私は、どうしたって、そういう風に世界を見ている人間がここにいるよと、叫びたいのかもしれない。

いつでもどこでも誰もが、愛に包まれていない瞬間なんてない。だから安心して不安になって、悩んで、悲しんで、怒っていい。そして安心して喜んで、楽しんで、くつろいでいいのだと。

拙くて、声にならなくて、誰にも届いていなくても。

それは日常生活で十分できることだし、これからはそこで思う存分放っていくのだと思っていたのだけど、どうやらそれだけでは物足りないらしい。

だからこれからは、noteの街の外れにある、極々ありふれた愛しい我が家から。

のんびり、気楽に、心のままに。

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