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【臨月に書いた文章】幸せのなかで、私の人生はさらさらとこぼれ落ちる

 二回目の臨月である。第一子の臨月では、眠たくてひたすらに寝ていた。今回は眠気はあまりないのだが、前回よりも感情が不安定になり、いわゆるマミーブレインなどの症状が強く見られる。

 びっくりするほど判断力や記憶力が落ちている。お風呂に入っているときにいまシャンプーをしたかわからなくなる(たぶん二回シャンプーしていることもある)。歯ブラシを手にいま歯磨きをしたかわからなくなる(たぶん二回歯磨きをしているときもある)。人の話が半分ほど理解できない。そもそもいつも、靄がかかったように頭がぼんやりしている。

 出産後、赤ちゃんを育てられるように。そのために出産する女性の脳は変わるのだ、と知識として知ったけれども、ではこれは必要なことなのだ、良いことなのだ、と言い切れるほど私は強くもない。

 子どもをもつ、と決めたとき、同時に決めたのは「自分の人生を生きる」ことだった。もちろん、自分のためでもある。だが、傲慢かもしれないが、自分なりに子どものためのつもりでもあった。
 育児に集中するという選択もひとつの選択で、素晴らしいことだと思う。それで幸せならば、尚更に。

 だからあくまで私の場合ということになるが、私は、「子どものために何かを諦めた」とは微塵も思いたくなかったし、意識的にであれ無意識的にであれそういったメッセージを子どもに向けたくはなかった。
 母になる。それはもちろん、とてもとても大きなことで、でもだからと言って、自分が自分自身であることを縮小しなくてもよい。そう考えていた。

 しかし、妊娠というのは予想していた以上のことが次々と起こるものだった。

 私が最も苦労を感じたのは、体調面だった。
 大変お恥ずかしながら、自分が妊娠するまで、私は妊娠の苦労というのをほとんど知らなかった。
 つわりがあるのも、産休があるのも、入院することも知っていた。だがその程度の知識、その程度の想像だった。

 単に気持ち悪くなるだけ、出産前後に休み、入院すればよい、という問題ではなかった。
 つわりの気持ち悪さというのは想像以上だった。しかも時期が長い。休めばよいのは必ずしも出産前後に限ったことではない。つわりで動けない日もあるし、いわゆる安定期でも、お腹が張ったり出血があれば即受診して要安静だ。妊娠後期はすぐにお腹が張ってしまい、休まざるを得ない日も多い。

 妊娠していないのであれば、無理をしても最悪壊れるのは自分だけだ。それだって大変なことだし、本来は徹底して避けるべきことである。
 しかし。まだ生まれていない、とても小さく、私の行動ひとつでもしかしたらすべてを絶たれてしまうかもしれない赤ちゃんという存在、そのいのち、存在まるごとが自分に託されているという重みは、またひとつ違ったものがある。

 第一子を妊娠したときと、今回第二子を妊娠しているとき、それぞれの違いというのもある。
 第一子のときも第二子のときも体調は悪かったが、発現の仕方が異なった。かなり、違いがあった。
 ひとりの人間でもこんなに違うのだから、ひとによって、本当に個人差があるのだろう。ここがまた、妊娠そして出産という現象の難しいところだ。
 自分は、あるいは身近なひとは、そんなにつらくなかった。そう思うひとが出てきてしまうのも、ある意味では当然かもしれない。
 妊娠の実態というのは、たぶん、本当に、ひとによって、異なるのだ。
 月経の辛さに個人差があるように、妊娠出産による体調不良にも個人差があるのだろう。

 愚痴っぽく、響くだろうか。そうかもしれない。私自身、自分のなかで、体調不良を訴える話はいつもどこか愚痴っぽく響く。

 体調も、体質も、持病も、言い訳をするな。その言い分は、わかるところもある。
 だけれども。
 乗り越えろ。頑張れ。工夫しろ。妊娠というのは、なおさらに、そういう話の通じないものだった。

 いま、もしかしたら私は幸福そのものの人間に見えるのかもしれない。結婚を望んでいるひとがいる。子どもを望んでいるひとがいる。もちろん、いずれも望んでいない人も、まだ結論を出していないひともいるが、しかし望んでいるひともいる。
 いま私は既婚で、子どもがいて、だから幸せ。問題ない。そういうことに、なるのだろう。
 まったくもって間違いない。

 だけれども、私は苦しい。自分の人生が停滞することが。やりたいことも、やれたであろうこともたくさんある。それらの可能性がすべて手のひらからさらさらとこぼれ落ちていく。
 自分だって知らなかった。無知だった。妊娠というのは出産前後に耐えればいいだけの話ではない。産前1年近く、産後も1年以上、妊娠していなかった頃の自分の生活と体調にはとてもとても戻れない。

 こぼれ落ちていく。私が伏せている間にも世間は進んでいく。私は子どもを産む。それは私の場合自分の選択でもあるし、望んだことでもある。もちろん子どもはとても可愛い。子どもに恵まれたことはとてもありがたい。それは本当に間違いない。

 しかし、それはそれで、私の「あったはず」の人生は、どこにもないまま、さらさらとこぼれ落ちていく。さらさらと、とても静かにこぼれ落ちるので、ほとんどのひとには気づいてもらうことができない。

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