産休を取ることにした。 と言っても、雇用されて勤めているわけではないので社会保険上の産休ではない。社会保険上の産休に準じた、産後8週間の休みである。 第一子の出産の際には、産休らしい産休はほとんど取らなかった。産院の病室にパソコンも持ち込んだし、体調が良ければパソコンを開いたりもしていた。 退院後は第一子の世話をしながらではあったけれど、文章を書いたりもしたし、意外といけるなというのが当時の正直な感想だった。 産休らしい産休は取らず、するすると、なんとなく普段の生
二回目の臨月である。第一子の臨月では、眠たくてひたすらに寝ていた。今回は眠気はあまりないのだが、前回よりも感情が不安定になり、いわゆるマミーブレインなどの症状が強く見られる。 びっくりするほど判断力や記憶力が落ちている。お風呂に入っているときにいまシャンプーをしたかわからなくなる(たぶん二回シャンプーしていることもある)。歯ブラシを手にいま歯磨きをしたかわからなくなる(たぶん二回歯磨きをしているときもある)。人の話が半分ほど理解できない。そもそもいつも、靄がかかったよう
私は結婚、妊娠、出産を経て、初めて世間の「標準」に載った。この「標準」という表現は多くの問題を孕んでいるが、その上で、そう思う。 25歳で結婚、29歳で第一子を出産、31歳で第二子を出産。結婚が若干早く、結婚から出産までに少し間があるが、それにしても可笑しくなるほどに「平均値」だ。 私はずっと外れてきた。中学も高校も不登校で、大学も中退した。その他の個人的な事情も「普通」とはかけ離れていた。いまでも「普通」の呪いに苦しんでいる。 しかし、今度は私が「普通」になって
※各ゲームの微ネタバレを含みます。ご注意ください。 マザーフォロワーとは? 『MOTHER』シリーズ、『UNDERTALE』『DELTARUNE』『OMORI』『OneShot』『ゆめにっき』といったゲームが好きである。 これらのゲームは、すべて名作MOTHERシリーズに影響を受けていることは、既に多くの方々に言われてきたと思う。 だから私が今更、何かを尚更に言う必要はないかもしれないのだが、私はとにかくMOTHERとMOTHERに影響を受けたこれらのゲームが好きだ。
私は上智大学で何度も泣いている。とてもきれいとは言い難い涙を何度も流してきている。 初めて泣いたのは入試のときで、2011年の2月、大雪が降っていた。神学部の二次選考。圧迫面接でも何でもない、むしろ労わりと配慮さえ感じられる面接で、それでも私は泣いた。 何かが怖かったわけではない。何かが嫌だったわけではない。ただ、感極まってしまった。自分がここにいること。長かった受験生活が終わろうとしていること。つまり、自分のための自分勝手な涙で、小学生のように泣きじゃくる高校生に「
最近また少し、noteにもいます。 前回書いた「noteでのオリジナル連載」というのは、別名義でやろうかなと考え中(その際には、こちらでもご案内させていただきます)。 「柳なつき」アカウントとしては、エッセイなどを載せていくのもいいのかな、と考え中。 なんにせよ考え中ですね……。
noteを少し整理しました。 誠に勝手ながら、「アゲイン」「ざらつく」シリーズと「異世界転生虐殺クロニクル」については、別サイトのみで連載を続けることにいたしました。 また、noteでのオリジナル記事の構想も引き続き練っています。そちらもいずれ始められるよう、頑張ります。
noteを少し整理しようと思います。 一部の記事の、移動や一時的な非公開など。 その代わり、noteではまた違った立場と視点での、オリジナルの連載を始めていきたいと思っております。もうすこし時間はかかるかもしれませんが、そちらも始めましたらどうぞよろしくお願いします。
新刊が発売されました。 詳しくは、柳なつきのプロフィールやTwitterにて。 何卒よろしくお願いいたします!
明日、メディアワークス文庫より新刊が発売されるのです。表紙もとてもきれいなので、書店でお見かけしたら、ぜひ手に取ってみてくださいね。http://mwbunko.com/978-4-04-912336-4/
以前、「小説家になろう」のエッセイジャンルで「死で生を潰されたくない。(なろう内URL:https://ncode.syosetu.com/n5407em/ )」というエッセイを書いた。人間はいつかかならず死ぬし、その可能性はつねにいつも消えないが、たとえば「明日死ぬかもしれないんだよ?」という「正しい」お声がけはお気持ちだけ受け取ってあとはすべてシャットアウトする、という意を書いた、エッセイである。 そちらのエッセイにもさまざまなご意見をいただいた。多かったのが「なに
今年で二十六歳になるはずなのだが、まだ、若い若いと――というか「まだ若いからわからないかもしれないけど」とか「若いからそう言えるんだよね」とか、とても言われがちな私である。それでも、中高生や二十歳前後のころよりはずいぶんと言われなくはなってきたが、はー、まだ言われるんだなあ、とはふしぎな気持ちである。まずいくつくらいになれば年齢を理由に言われなくなるのだろうか? 三十代となり三十代であることが板につけばだろうか? ――とは二十代のいまだからそう思うけど、たとえば五十代のひと
「あんたらなんかみんな嫌いだ」 そう言い放てたらどんなにいいか だってじっさいそうである以上に、 そこまで嫌いじゃないんだよだれのことも、だれだって、だれだって、
毎日毎日をあくなきはてまで忙しく過ごしてみたならば、 忙しく、忙しく 目的のために物語のごとく世界は生活は過ぎゆくだろうけど、 そのなかでも確固としたものをこれと 不確かなそれだけを抱いてすすむことを、 ひとは、こうふくと呼ぶのではないですかね、したがうことと、しあわせなことと。
「私は、幸福だった」 「私は、幸運だった」 ただそれだけのことを繰り返してけっきょくなんの役にも立ってやしない
むかしの自分を殺したくなる もっと手ひどく救いたくなる